日本作曲界の巨星・早坂文雄の悲痛なピアノ協奏曲を聴け!(その2)

putchees2005-12-17


その1よりつづき


香港のナクソスNaxosレーベルが出している、
なんと一枚1000円という日本人作曲家の
作品集、「日本作曲家選輯(せんしゅう)」は、
一枚ごとに大きな話題を集めています。


今回はその最新盤のお話をしています。


黒澤明七人の侍」の音楽を手がけた
巨匠・早坂文雄(はやさか・ふみお1914〜1955)
の芸術音楽(純音楽)作品についてです。


興味のある方は、その1からお読みください。
id:putchess:20051214

今回紹介しているCD


【タイトル】


日本作曲家選輯Japanese Classics
早坂文雄Hayasaka Humiwo


(香港・ナクソスNaxos 2005)


【曲目】


1.ピアノ協奏曲(1948)
2.左方の舞と右方の舞(1941)
3.序曲ニ調(1939)


【ミュージシャン】


ピアノ独奏:岡田博美(おかだ・ひろみ)
指揮:ドミトリ・ヤブロンスキーDmitry Yablonsky
管弦楽:ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
Russian Philharmonic Orchestra

有為転変の少年時代


ここで、早坂文雄の簡単な伝記を記してみましょう。


ちなみに今回の冒頭に掲げてあるのが、
早坂文雄ポートレートです。


早坂文雄は、1914年大正3年)に仙台で生まれましたが、
すぐに札幌へ移り、そこで育ちました。
早坂家は、かなり裕福で、文化的な家庭だったようです。
彼は当初、絵画を志しますが、やがて音楽に方向転換します。
楽器はハーモニカを、次いでピアノを演奏するようになります。


札幌の私立の名門・
北海中学(現在の北海高校*1)に入学しますが、
彼が16歳のとき父親が家出し、家庭はたちまち困窮します。
その心労から、彼の母親は病死してしまいます。


中学生の早坂少年は、貧しさのために
自ら働きに出なければなりませんでした。
幼いきょうだいと自分が食べていくだけで精一杯でした。
そんな境遇でも、彼は必死で音楽を学んだのです。

伊福部昭との出会い


早坂文雄が18歳のとき、伊福部昭(いふくべ・あきら)という
音楽好きの青年に出会います。
伊福部青年は北大(北海道帝国大学)の学生で、
父親が村長や警察署長をつとめる名士という恵まれた境遇でした。


早坂青年は、趣味の音楽に心おきなく打ち込める
伊福部青年の境遇をうらやんだに違いありません。


もうひとり、三浦淳(みうら・あつし)という
クラシック音楽好きの青年とも親しくなります。


三浦青年は語学を得意とし、
10代にして欧州の有名な音楽家たちと
手紙のやりとりをしていました。
彼はのちに高名な音楽評論家になります。


ほんとうに偶然ですが、この3人は同じ1914年生まれでした。


伊福部昭早坂文雄も、ドビュッシー
ラヴェルストラヴィンスキーミヨーといった、
当時まだ一般的でなかったフランス系の音楽を愛していました。


この3人に、伊福部青年の兄・(いさお)を加えた4人は、
音楽によって結ばれた親友同士でした*2

エリック・サティ日本初演を手がける


伊福部昭はヴァイオリンを得意とし、
早坂文雄はピアノが得意でした。
そして伊福部勲はギターの名手でした。


この3人は、三浦淳史のプロデュースで、
札幌で音楽会を催します。


そのプログラムは、当時としては驚くべきものでした。
ラヴェルMaurice Ravel
ストラヴィンスキーIgor Stravinsky
ダリウス・ミヨーDarius Milhaud、
マヌエル・デ・ファリャManuel de Falla、
ホアキン・ニンJoaquin Nin*3
エルヴィン・シュルホフErwin Schulhoff*4
さらにエリック・サティErik Satieといった作曲家の作品が
取り上げられたのです。


21世紀の今だって、これだけ個性的なプログラムの
室内楽の演奏会は、たびたび聴けるものではありません。


早坂文雄は、ピアノ独奏で
サティの「三つのグノシェンヌGnossienne」などを演奏しました*5
もちろん、これがサティの日本初演です*6


早坂文雄伊福部昭も、サティに惚れ込んでいたのです*7


日本でサティが広く知られるようになるのは1980年代以降のことで、
早坂、伊福部を中心とするサークルは、
実に時代を半世紀も先行していたことになります。


ちなみに、1951年に伊福部昭が書いた「音楽入門」という本には、
サティの「ジムノペディ」について
人類が生み得たことを神に誇ってもいい」傑作だと記されています。


1930年代といえば、日本の音楽ファンは、
ベートーヴェンLudwig van Beethoven
シューベルトFranz Schubertなど、100年以上昔の
ドイツ・ロマン派の音楽を一生懸命聴いていた時代です。


そんなとき、札幌のディレッタントたちは、
すでに同時代の欧州の音楽を吸収していたわけです。

ドビュッシーからプロコフィエフまで


当時、札幌には「ネヴォ」という名曲喫茶があり*8
早坂文雄伊福部昭三浦淳史は足繁く通っていました。
そこには小林多喜二なども通っていました。


小林多喜二(こばやし・たきじ1903〜1933)というのは、
もちろん「蟹工船」(1929)で有名なプロレタリア作家です。
左翼文芸というのは、当時もっともモダンなジャンルでした。
彼は上京する以前にネヴォに通っていたそうです。


名曲喫茶というと、東京ではもはや
渋谷の「ライオン」くらいしか残っていませんが、
昔はクラシックのレコードを聴かせるカフェが
各地の都会にあったわけです。


早坂文雄は、その店でプロコフィエフSergei Prokofievの
先鋭的なヴァイオリン協奏曲第一番(1917)を聴いて、
衝撃のあまり失神してしまったといいます。


心理的ショックで失神するなんて、
まるで「千夜一夜」に出てきそうな大げさな話です。
若き芸術家の繊細な感性を物語るエピソードでしょう。


1930年代初頭に、すでにプロコフィエフの衝撃までが
日本に(しかも札幌に)入ってきていたのです。


すでに伊藤昇の稿で書いたとおりですが*9
戦前の日本のクラシック受容は、問題にならないくらい
幼稚だったと考える人は、認識を改めたほうがよさそうです。

作曲家への道


ともかく、早坂文雄伊福部昭
早熟な音楽家であったわけです。


ふたりは三浦淳史という理論的指導者を得て、
作曲へ傾倒していきます。


大の男が音楽なんて……と、白い目で見られていた時代に、
作曲家を目指すことは、たいへんな覚悟が必要でした。


早坂文雄伊福部昭は、共通の趣味で結ばれた同志だったわけです。
ふたりはよき友人であり、もっとも身近なライバルでした。


後世の目にはほとんど奇跡に見えるのですが、
偶然出会ったこのふたりは、
同じように突出した才能を持っていました。


こうして追いつ追われつの、
ふたりの音楽家としての人生が始まります。

ライバルは伊福部昭


1935年昭和10年)2月、東京でチェレプニン賞
作曲コンクールの開催が発表されます。


パリで活躍するロシア人作曲家・
アレクサンドル・チェレプニンAleksandr Tcherepnin*10(1899‐1977)が、
日本人を対象とするオーケストラ曲のコンクールを催したのです。


ここで、伊福部昭早坂文雄はともに作品を応募します。


栄冠に輝いたのは、伊福部昭のほうでした。
彼の「日本狂詩曲Japanese Rhapsody」(1935)は、
イベールJacques IbertやタンスマンAlexandre Tansman、
ルーセルAlbert Rousselら6人の審査員の満場一致で1等を得ます*11


その曲は翌1936年に合衆国のボストンで初演され、
欧州で楽譜が出版され、シベリウスJean Sibeliusや
ルネ・レイボヴィッツRene Leibowitz*12の賞賛を得ます。


こうして伊福部昭は一夜にして、山田耕筰と並んで
日本を代表する作曲家ということになってしまいました。


ライバルに先を越された早坂文雄悔しさは、
察するにあまりあります。

1週間遅れのデビュー


しかし、チェレプニン賞が発表された9日後
こんどは早坂文雄のもとに栄光が舞い込んできます。


NHK山田耕筰(やまだ・こうさく1886-1965)を
審査員として開いたコンクールに、
早坂文雄のオーケストラ曲が入賞するのです*13


このときの入賞作「二つの賛歌への前奏曲」は、
翌1936年の元旦に、ラジオ放送で初演されます。
もちろん、「日本狂詩曲」の初演より前のことです。


早坂文雄は、このとき初めて、
自分の作品が音になったのを耳にしました。

楽器も知らないで作曲していた!!


実は早坂文雄伊福部昭も、
オーケストラに使われる楽器のことを、
よく知らないで作曲していたのです。


ピアノやヴァイオリンといった身近な楽器はともかく、
たとえばコントラファゴットcontrafagottoなどといったような楽器は、
当時の札幌では実物を見ることすら不可能でした。


驚くべきことに、彼らは音質の悪いSPレコードで聴くクラシック曲と、
欧州から取り寄せたスコア、それに英語の音楽の教科書をたよりに
「こんな感じで楽器を組み合わせるとこういう音色になるだろう」と
想像で作曲していたのです。


もちろんふたりとも、作曲はまったくの独学でした。


いまのように音楽教育の環境が恵まれた時代からは
想像もできない状況ですが、図抜けた才能というのは、
どんな不利な環境からでも頭角を現してくるものなのでしょう。


現代は日本にも音楽大学などがたくさんあって、
西洋音楽を学ぶ環境はたいへん恵まれていますが、
はたしてそこから、
どれだけのすぐれた作曲家が生まれていることでしょうか。


武満徹吉松隆(よしまつ・たかし1953-)といった
日本を代表する作曲家がみんな独学であることを見るにつけ、
作曲家を教育で作り出すことの
不可能性について考えさせられます。

ワインガルトナー賞の受賞


早坂文雄は、1936年に札幌を訪れた
チェレプニンに認められ、自作のピアノ曲
欧州で出版されることになりました。


さらに1939年昭和14年)には、20世紀前半を代表する指揮者・
フェリックス・ヴァインガルトナー(ワインガルトナー)
Felix Weingartner*14
の名を冠した作曲コンクールに入賞します。


この賞は、ヴァインガルトナーが日本をただ一度
訪れた際(1937)の歓迎ぶりに感謝して設けられたものです。


このワインガルトナー賞に、
早坂文雄は「古代の舞曲」という作品で入賞します。
これをきっかけに、早坂文雄は作曲家として
世間に認められることになります。


このとき、早坂文雄24歳
伊福部昭がチェレプニン賞を受けたのが21歳
ともに、世に出たときの若さに驚かされます。


正規の音楽教育を受けたことのない、北の果てのふたりの青年が、
東京の音楽学校の出身者をさしおいて、
日本を代表する作曲家として認められたのです。

東宝に作曲家として入社


早坂文雄は、ワインガルトナー賞受賞をきっかけに、
東京の映画会社・東宝*15作曲家として入社します。


ここでの俸給(月給)は100円でした*16
早坂文雄は、ようやく安定した収入を得て、
作曲に打ち込めるようになったのでした。


このころ、伊福部昭はまだ北海道で官吏(公務員)として
国有林の管理に当たっていました*17


デビューに関しては伊福部昭に遅れを取ったものの、
音楽で食べていくことに関しては、早坂文雄
一歩先んじたのです。


しかしその前年(1938)年、早坂文雄はやがて
自分の命を奪うことになる結核の宣告を受けていました。


こののちの早坂文雄の歩みは、病魔と闘いながら、
創作の炎を燃え立たせる凄絶なものとなりました。


このあたりの経過はたいへんドラマチックで、
小説や映画の題材になりそうです。


さて、その後早坂文雄は、映画音楽の仕事をしながら
自分のための作曲に意欲的に取り組むわけですが、
ちょうどその時期(1939年〜1941年)に書かれた作品が、
このナクソスのCDに収められています。


それらの作品と、その後の早坂文雄の歩みについては、
つづきをお読みください。


(以下、その3につづく→id:putchees:20051222)

*1:座頭市」の子母沢寛島木健作も北海中学出身。

*2:伊福部昭三浦淳史の青年期については、過去のレビューでも書いています→id:putchees:20050612

*3:作家アナイス・ニンAnais Ninの父親。つまり近親相姦の相手です。

*4:彼はナチスNazisの強制収容所で生涯を終えます。

*5:サティのピアノ曲の中で、「三つのジムノペディTrois Gymnopedies」に次いで有名な曲です。

*6:早坂文雄は、のちに「三つのグノシェンヌ」の放送初演も手がけます。

*7:伊福部昭は一時期、サティのブロマイドを部屋に飾っていたほどだそうです。

*8:1928年、つまり昭和3年の開店。

*9:伊藤昇については過去のレビューをお読みください→そのid:putchees:20051126

*10:アレクサンドルの父ニコライNikolayも作曲家で、プロコフィエフProkofievなどの師。そしてアレクサンドルの息子イワンIvanはブーレーズPierre BoulezシュトックハウゼンKarlheinz Stockhausenの弟子で、シンセサイザーの開発者として知られています。

*11:イベールについては、過去のレビューをごらんください→id:putchees:20051102

*12:シェーンベルクArnord Schoenbergの弟子で、ブーレーズPierre Boulezらの師。12音主義者dodekaphonist。指揮者として有名。

*13:山田耕筰については過去のレビューをお読みください→id:putchees:20051016

*14:1863〜1942。リストFranz Lisztの弟子で、マーラーGustav Mahlerの後にウィーン国立歌劇場の指揮者となり、ウィーンフィルの常任指揮者もつとめた大物中の大物。作曲家としては、フルトヴェングラーなどと同じくドイツ後期ロマン派に属します。

*15:大手の映画会社としては、松竹日活に次ぐ最後発でしたが、近代的な製作システムで、先行する2社を次第に圧倒していきます。

*16:当時の小学校の教員(訓導)の初任給は約50円だったようです。米10キログラムが3円25銭、そば一枚が15銭という時代ですから、そこそこの給料だったのではないでしょうか。

*17:伊福部昭は北大で林学を学んだ科学者です。