日本作曲界の巨星・早坂文雄の悲痛なピアノ協奏曲を聴け!(その2)
その1よりつづき
香港のナクソスNaxosレーベルが出している、
なんと一枚1000円という日本人作曲家の
作品集、「日本作曲家選輯(せんしゅう)」は、
一枚ごとに大きな話題を集めています。
今回はその最新盤のお話をしています。
黒澤明「七人の侍」の音楽を手がけた
巨匠・早坂文雄(はやさか・ふみお1914〜1955)
の芸術音楽(純音楽)作品についてです。
興味のある方は、その1からお読みください。
→id:putchess:20051214
今回紹介しているCD
【タイトル】
日本作曲家選輯Japanese Classics
早坂文雄Hayasaka Humiwo
【曲目】
1.ピアノ協奏曲(1948)
2.左方の舞と右方の舞(1941)
3.序曲ニ調(1939)
【ミュージシャン】
ピアノ独奏:岡田博美(おかだ・ひろみ)
指揮:ドミトリ・ヤブロンスキーDmitry Yablonsky
管弦楽:ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
Russian Philharmonic Orchestra
有為転変の少年時代
ここで、早坂文雄の簡単な伝記を記してみましょう。
ちなみに今回の冒頭に掲げてあるのが、
早坂文雄のポートレートです。
早坂文雄は、1914年(大正3年)に仙台で生まれましたが、
すぐに札幌へ移り、そこで育ちました。
早坂家は、かなり裕福で、文化的な家庭だったようです。
彼は当初、絵画を志しますが、やがて音楽に方向転換します。
楽器はハーモニカを、次いでピアノを演奏するようになります。
札幌の私立の名門・
北海中学(現在の北海高校*1)に入学しますが、
彼が16歳のとき父親が家出し、家庭はたちまち困窮します。
その心労から、彼の母親は病死してしまいます。
中学生の早坂少年は、貧しさのために
自ら働きに出なければなりませんでした。
幼いきょうだいと自分が食べていくだけで精一杯でした。
そんな境遇でも、彼は必死で音楽を学んだのです。
伊福部昭との出会い
早坂文雄が18歳のとき、伊福部昭(いふくべ・あきら)という
音楽好きの青年に出会います。
伊福部青年は北大(北海道帝国大学)の学生で、
父親が村長や警察署長をつとめる名士という恵まれた境遇でした。
早坂青年は、趣味の音楽に心おきなく打ち込める
伊福部青年の境遇をうらやんだに違いありません。
もうひとり、三浦淳史(みうら・あつし)という
クラシック音楽好きの青年とも親しくなります。
三浦青年は語学を得意とし、
10代にして欧州の有名な音楽家たちと
手紙のやりとりをしていました。
彼はのちに高名な音楽評論家になります。
ほんとうに偶然ですが、この3人は同じ1914年生まれでした。
伊福部昭も早坂文雄も、ドビュッシーや
ラヴェル、ストラヴィンスキーやミヨーといった、
当時まだ一般的でなかったフランス系の音楽を愛していました。
この3人に、伊福部青年の兄・勲(いさお)を加えた4人は、
音楽によって結ばれた親友同士でした*2。
エリック・サティの日本初演を手がける
伊福部昭はヴァイオリンを得意とし、
早坂文雄はピアノが得意でした。
そして伊福部勲はギターの名手でした。
この3人は、三浦淳史のプロデュースで、
札幌で音楽会を催します。
そのプログラムは、当時としては驚くべきものでした。
ラヴェルMaurice Ravel、
ストラヴィンスキーIgor Stravinsky、
ダリウス・ミヨーDarius Milhaud、
マヌエル・デ・ファリャManuel de Falla、
ホアキン・ニンJoaquin Nin*3、
エルヴィン・シュルホフErwin Schulhoff*4、
さらにエリック・サティErik Satieといった作曲家の作品が
取り上げられたのです。
21世紀の今だって、これだけ個性的なプログラムの
室内楽の演奏会は、たびたび聴けるものではありません。
早坂文雄は、ピアノ独奏で
サティの「三つのグノシェンヌGnossienne」などを演奏しました*5。
もちろん、これがサティの日本初演です*6。
日本でサティが広く知られるようになるのは1980年代以降のことで、
早坂、伊福部を中心とするサークルは、
実に時代を半世紀も先行していたことになります。
ちなみに、1951年に伊福部昭が書いた「音楽入門」という本には、
サティの「ジムノペディ」について
「人類が生み得たことを神に誇ってもいい」傑作だと記されています。
1930年代といえば、日本の音楽ファンは、
ベートーヴェンLudwig van Beethovenや
シューベルトFranz Schubertなど、100年以上昔の
ドイツ・ロマン派の音楽を一生懸命聴いていた時代です。
そんなとき、札幌のディレッタントたちは、
すでに同時代の欧州の音楽を吸収していたわけです。
ドビュッシーからプロコフィエフまで
当時、札幌には「ネヴォ」という名曲喫茶があり*8、
早坂文雄、伊福部昭、三浦淳史は足繁く通っていました。
そこには小林多喜二なども通っていました。
小林多喜二(こばやし・たきじ1903〜1933)というのは、
もちろん「蟹工船」(1929)で有名なプロレタリア作家です。
左翼文芸というのは、当時もっともモダンなジャンルでした。
彼は上京する以前にネヴォに通っていたそうです。
名曲喫茶というと、東京ではもはや
渋谷の「ライオン」くらいしか残っていませんが、
昔はクラシックのレコードを聴かせるカフェが
各地の都会にあったわけです。
早坂文雄は、その店でプロコフィエフSergei Prokofievの
先鋭的なヴァイオリン協奏曲第一番(1917)を聴いて、
衝撃のあまり失神してしまったといいます。
心理的ショックで失神するなんて、
まるで「千夜一夜」に出てきそうな大げさな話です。
若き芸術家の繊細な感性を物語るエピソードでしょう。
1930年代初頭に、すでにプロコフィエフの衝撃までが
日本に(しかも札幌に)入ってきていたのです。
すでに伊藤昇の稿で書いたとおりですが*9、
戦前の日本のクラシック受容は、問題にならないくらい
幼稚だったと考える人は、認識を改めたほうがよさそうです。
作曲家への道
ともかく、早坂文雄と伊福部昭は
早熟な音楽家であったわけです。
ふたりは三浦淳史という理論的指導者を得て、
作曲へ傾倒していきます。
大の男が音楽なんて……と、白い目で見られていた時代に、
作曲家を目指すことは、たいへんな覚悟が必要でした。
早坂文雄と伊福部昭は、共通の趣味で結ばれた同志だったわけです。
ふたりはよき友人であり、もっとも身近なライバルでした。
後世の目にはほとんど奇跡に見えるのですが、
偶然出会ったこのふたりは、
同じように突出した才能を持っていました。
こうして追いつ追われつの、
ふたりの音楽家としての人生が始まります。
ライバルは伊福部昭
1935年(昭和10年)2月、東京でチェレプニン賞
作曲コンクールの開催が発表されます。
パリで活躍するロシア人作曲家・
アレクサンドル・チェレプニンAleksandr Tcherepnin*10(1899‐1977)が、
日本人を対象とするオーケストラ曲のコンクールを催したのです。
栄冠に輝いたのは、伊福部昭のほうでした。
彼の「日本狂詩曲Japanese Rhapsody」(1935)は、
イベールJacques IbertやタンスマンAlexandre Tansman、
ルーセルAlbert Rousselら6人の審査員の満場一致で1等を得ます*11。
その曲は翌1936年に合衆国のボストンで初演され、
欧州で楽譜が出版され、シベリウスJean Sibeliusや
ルネ・レイボヴィッツRene Leibowitz*12の賞賛を得ます。
こうして伊福部昭は一夜にして、山田耕筰と並んで
日本を代表する作曲家ということになってしまいました。
ライバルに先を越された早坂文雄の悔しさは、
察するにあまりあります。
1週間遅れのデビュー
しかし、チェレプニン賞が発表された9日後、
こんどは早坂文雄のもとに栄光が舞い込んできます。
NHKが山田耕筰(やまだ・こうさく1886-1965)を
審査員として開いたコンクールに、
早坂文雄のオーケストラ曲が入賞するのです*13。
このときの入賞作「二つの賛歌への前奏曲」は、
翌1936年の元旦に、ラジオ放送で初演されます。
もちろん、「日本狂詩曲」の初演より前のことです。
早坂文雄は、このとき初めて、
自分の作品が音になったのを耳にしました。
楽器も知らないで作曲していた!!
実は早坂文雄も伊福部昭も、
オーケストラに使われる楽器のことを、
よく知らないで作曲していたのです。
ピアノやヴァイオリンといった身近な楽器はともかく、
たとえばコントラファゴットcontrafagottoなどといったような楽器は、
当時の札幌では実物を見ることすら不可能でした。
驚くべきことに、彼らは音質の悪いSPレコードで聴くクラシック曲と、
欧州から取り寄せたスコア、それに英語の音楽の教科書をたよりに
「こんな感じで楽器を組み合わせるとこういう音色になるだろう」と
想像で作曲していたのです。
もちろんふたりとも、作曲はまったくの独学でした。
いまのように音楽教育の環境が恵まれた時代からは
想像もできない状況ですが、図抜けた才能というのは、
どんな不利な環境からでも頭角を現してくるものなのでしょう。
現代は日本にも音楽大学などがたくさんあって、
西洋音楽を学ぶ環境はたいへん恵まれていますが、
はたしてそこから、
どれだけのすぐれた作曲家が生まれていることでしょうか。
武満徹や吉松隆(よしまつ・たかし1953-)といった
日本を代表する作曲家がみんな独学であることを見るにつけ、
作曲家を教育で作り出すことの
不可能性について考えさせられます。
ワインガルトナー賞の受賞
早坂文雄は、1936年に札幌を訪れた
チェレプニンに認められ、自作のピアノ曲が
欧州で出版されることになりました。
さらに1939年(昭和14年)には、20世紀前半を代表する指揮者・
フェリックス・ヴァインガルトナー(ワインガルトナー)
Felix Weingartner*14
の名を冠した作曲コンクールに入賞します。
この賞は、ヴァインガルトナーが日本をただ一度
訪れた際(1937)の歓迎ぶりに感謝して設けられたものです。
このワインガルトナー賞に、
早坂文雄は「古代の舞曲」という作品で入賞します。
これをきっかけに、早坂文雄は作曲家として
世間に認められることになります。
このとき、早坂文雄は24歳。
伊福部昭がチェレプニン賞を受けたのが21歳。
ともに、世に出たときの若さに驚かされます。
正規の音楽教育を受けたことのない、北の果てのふたりの青年が、
東京の音楽学校の出身者をさしおいて、
日本を代表する作曲家として認められたのです。
東宝に作曲家として入社
早坂文雄は、ワインガルトナー賞受賞をきっかけに、
東京の映画会社・東宝*15に作曲家として入社します。
ここでの俸給(月給)は100円でした*16。
早坂文雄は、ようやく安定した収入を得て、
作曲に打ち込めるようになったのでした。
このころ、伊福部昭はまだ北海道で官吏(公務員)として
国有林の管理に当たっていました*17。
デビューに関しては伊福部昭に遅れを取ったものの、
音楽で食べていくことに関しては、早坂文雄が
一歩先んじたのです。
しかしその前年(1938)年、早坂文雄はやがて
自分の命を奪うことになる肺結核の宣告を受けていました。
こののちの早坂文雄の歩みは、病魔と闘いながら、
創作の炎を燃え立たせる凄絶なものとなりました。
このあたりの経過はたいへんドラマチックで、
小説や映画の題材になりそうです。
さて、その後早坂文雄は、映画音楽の仕事をしながら
自分のための作曲に意欲的に取り組むわけですが、
ちょうどその時期(1939年〜1941年)に書かれた作品が、
このナクソスのCDに収められています。
それらの作品と、その後の早坂文雄の歩みについては、
つづきをお読みください。
(以下、その3につづく→id:putchees:20051222)
*2:伊福部昭と三浦淳史の青年期については、過去のレビューでも書いています→id:putchees:20050612
*3:作家アナイス・ニンAnais Ninの父親。つまり近親相姦の相手です。
*5:サティのピアノ曲の中で、「三つのジムノペディTrois Gymnopedies」に次いで有名な曲です。
*6:早坂文雄は、のちに「三つのグノシェンヌ」の放送初演も手がけます。
*7:伊福部昭は一時期、サティのブロマイドを部屋に飾っていたほどだそうです。
*9:伊藤昇については過去のレビューをお読みください→そのid:putchees:20051126
*10:アレクサンドルの父ニコライNikolayも作曲家で、プロコフィエフProkofievなどの師。そしてアレクサンドルの息子イワンIvanはブーレーズPierre Boulez、シュトックハウゼンKarlheinz Stockhausenの弟子で、シンセサイザーの開発者として知られています。
*11:イベールについては、過去のレビューをごらんください→id:putchees:20051102
*12:シェーンベルクArnord Schoenbergの弟子で、ブーレーズPierre Boulezらの師。12音主義者dodekaphonist。指揮者として有名。
*13:山田耕筰については過去のレビューをお読みください→id:putchees:20051016
*14:1863〜1942。リストFranz Lisztの弟子で、マーラーGustav Mahlerの後にウィーン国立歌劇場の指揮者となり、ウィーンフィルの常任指揮者もつとめた大物中の大物。作曲家としては、フルトヴェングラーなどと同じくドイツ後期ロマン派に属します。
*15:大手の映画会社としては、松竹、日活に次ぐ最後発でしたが、近代的な製作システムで、先行する2社を次第に圧倒していきます。
*16:当時の小学校の教員(訓導)の初任給は約50円だったようです。米10キログラムが3円25銭、そば一枚が15銭という時代ですから、そこそこの給料だったのではないでしょうか。