戦前のアヴァンギャルド・伊藤昇のオーケストラ曲を聴く!(その2)

putchees2005-11-30


その1よりつづき


日本の忘れられた名曲(珍曲?)を発掘して
演奏している意欲的なアマチュアオーケストラ、
オーケストラ・ニッポニカの演奏会のレポートを
書いています。


昭和初期に作られた、強烈にアヴァンギャルド
伊藤昇のオーケストラ曲を中心にご紹介するつもりです。


コンサート評というのは一般に、行った人にしか面白くない
ものですが、そういう文章にはしないつもりです。


気になる方は、ぜひ「その1」からお読みください。
id:putchees:20051126

コンサート報告を書いています


【今回のコンサート】
芥川也寸志メモリアル・オーケストラニッポニカ第8回演奏会
「昭和九年の交響曲シリーズ」(その1)


【日時・会場】
2005年11月20日(日) 14:30〜16:20
東京・紀尾井町紀尾井ホール


【ミュージシャン】

管弦楽:オーケストラ・ニッポニカOrchestra Nipponica
指揮:本名徹次(ほんな・てつじ)
ソプラノ:半田美和子(はんだ・みわこ)


曲目
●伊藤昇:「マドロスの悲哀への感覚」(1930)
●伊藤昇:古きアイヌの歌の断片「シロカニペ ランラン ピシュカン」
(銀の滴降る降るまはりに)(1930)
橋本國彦:「笛吹き女」(詩:深尾須磨子)作品6-3(1928)
諸井三郎:ソプラノのための二つの歌曲「妹よ」「春と赤ン坊」
(詩:中原中也)(1935)
諸井三郎交響曲ハ短調(1934)

伊藤昇以外の曲をご紹介


さて、今回のレビューは伊藤昇の曲を紹介するのが主な目的ですが、
そのほかの曲も面白かったので、先に紹介しておきましょう。


なお、今回の冒頭に掲げた写真は、今回の演奏会の指揮者・
本名徹次です。なかなかいい男ですね?

橋本國彦の洗練された歌曲


まず、橋本國彦(はしもと・くにひこ1904〜1949)の
笛吹き女(ふえふきめ)」(1928)です。


橋本國彦は第二次世界大戦の戦前〜戦中期に
東京音楽学校(のちの東京藝術大学音楽学*1)で作曲科の教授をつとめた人です。


これがなかなかの名曲でした。
ソプラノ独唱とオーケストラのための作品です。
文語体の美しい詞をもった歌に、
流麗な管弦楽が寄り添って流れます。


この曲ではドビュッシーClaude Debussyふうの幽玄な響きと、
新古典主義neoclassicismふうの典雅なクラシック音楽が融合しています。


タイトルにちなんで、曲のあちこちでフルートが
印象的な独奏を奏でます。


ソプラノの独唱は表情豊かで、
日本語の響きを活かしていました。


緩急のメリハリがあって、聴衆を飽きさせない構成でした。
ときに典雅に、ときにユーモラスに展開します。
こんな知られざる名曲があったのです。


この作品は、1928年の作ですから、昭和でいうと3年です。
日本人が最初にオーケストラ曲を作ったのが1912年のことですから*2
それからわずか16年で、これほど見事な曲が、
国内で作曲を学んだ音楽家によって作られるまでになったのです。


日本人が西洋の技法を吸収する速さには、
驚くべきものがあります。


ぼくは橋本國彦の曲を、日本作曲家選輯のCDで聴いていますが*3
正直言って面白くなかったので、
あまり期待しなかったのですが、この曲を聴いてイメージが変わりました。


どうやら、日本作曲家選輯に収められた作品は、
世界大戦を前にして
橋本國彦が保守的な作風に転向してからの曲のようです。
それ以前には、かなりモダンな作風だったようです。


橋本國彦は、他にも独唱とオーケストラのための
独創的な曲を書いているそうです。
いろいろな作品を聴いてみたいという気がしました。

諸井三郎と中原中也のコラボ


さて、つづいて諸井三郎(もろい・さぶろう1907〜1977)の曲です。
彼については、過去のレビューで紹介しています。
よかったらご一読ください。
id:putchees:20051004


諸井三郎は、財界のご意見番
諸井虔(もろい・けん1928〜)の父親です。


諸井虔は、最近だと西武鉄道の再建に関する報道や、
東京放送(TBS)の株式問題に関する報道で、
両社のお目付役としてメディアの前にしばしば登場しています。


諸井三郎はまた、先鋭的なスタイルの作曲家・
諸井誠(もろい・まこと1930〜)の父でもあります。


今回演奏されたのは、ソプラノ独唱とオーケストラのための曲がふたつ、
それにベルリンで初演された交響曲がひとつです。


まずは「ソプラノのための二つの歌曲」(1935)です。
詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや1907〜1937)の
「妹よ」(1930)「春と赤ン坊」(1935)というふたつの詩に、
友人である諸井三郎が曲をつけたのです。


中原中也の名前は知らなくても、
汚れつちまつた悲しみに…」というフレーズは
多くの人が知っているでしょう。


中原中也はフランス語を学び、ダダイズムdadaismや
ランボーArthur Rimbaudの影響を受けた、
唯美的な作風で知られています。


諸井三郎は、以前のレビューでも書いたように、
ドイツ流の明晰な音楽を書くことを目指した作曲家です。


フランス的デカダンスdecadenceと、
ドイツ的厳格さとは相容れない気がしますが、
ふたりは気の合う友人同士だったようです*4


今回演奏された曲が作られたのは1935年(昭和10年)。
中原中也の最晩年にあたります。


ベルリン留学から帰朝した*5諸井三郎が、
友人のために作曲したというわけです。


さて、作品はたいへん常識的でクラシカルな曲でした。


中原中也による、奇妙な言葉の並ぶ詩が
異様な印象を与えますが、音楽がフツウなので、
全体としては健全な曲という印象でした。


音楽よりは、詩それ自体のほうに価値がありそうです。


とはいえ、日本の近代文学と近代音楽が、
お互い影響を与えていたことがわかる、
貴重な作品の演奏でした。


日本の近代文学研究はさかんに行われていますが、
近代音楽の研究はたいへん遅れています。


こうした曲の演奏をきっかけに、
文学に興味を持つ人たちが、音楽のほうにも目を向けてくれたら
うれしいと思います。


明治・大正・昭和の三代にわたって、
西洋と日本の葛藤を抱きながら創作してきたという点では、
文学者も音楽家もまったく同じなのですから。

諸井三郎の堂々たる交響曲


さて、コンサートの掉尾を飾ったのは
ベルリン留学中の諸井三郎が1934年に作り、
同じ年にベルリンで初演された交響曲ハ短調交響曲第一番)です。


これが、たいへんかっちょいい音楽でした。


今回のコンサートは「昭和九年の交響曲」と題されていましたが、
それはこの交響曲のことを指しています。


片山杜秀の解説によれば、この年(1934)に
日本人作曲家の作った交響曲が、
パリとベルリンで合計三つ、初演されたというのです*6


そのころになると、
西洋音楽を学んだ日本人の作品が、
ようやくヨーロッパで認められるようになってきたのです。

交響曲」という音楽について


交響曲Symphony」は、西洋音楽の中で、
特別の意味を持ったジャンルです。


19世紀初頭のベートーヴェンLudwig van Beethoven以来、
あらゆる音楽の中でもっとも本格的、本質的な
ジャンルだと見なされてきたのです。


西洋音楽を学んだ日本人が、ヨーロッパで
認められるためには、なんとしても立派な交響曲
作らなければなりませんでした。


当時ヨーロッパに留学していた3人の作曲家
諸井三郎、貴志康一(きし・こういち1909〜1937)、大澤壽人*7は、
それぞれの野心と使命感に燃えて、
それぞれの交響曲を仕上げたに違いありません。


そして偶然、それらの曲が同じ時期に、
ヨーロッパで初演されたのです。


それは西洋音楽の歴史に、日本人が
ようやく参加できるようになったということでした。

不遇な「日本人の交響曲


片山杜秀によれば、海外で初演された
日本人の交響曲は、これら昭和9年の3つの交響曲
を除けば、戦前はおろか、戦後を含めても、
ごくわずかな例しかないのだそうです


そのわずかな例外とは、
合衆国で初演された伊福部昭(いふくべ・あきら1914〜)の
「タプカーラ交響曲シンフォニア・タプカーラ)」(1954)と、
英国で初演された吉松隆(よしまつ・たかし1953〜)の
交響曲第三番」(1998)と
交響曲第四番」(2000)くらいだそうです*8


えっ?
ホントにそれだけなの!?
と、びっくりしてしまいます。


しかも吉松隆のふたつの交響曲は、CDのための録音初演ですから、
コンサートで初演された戦後の日本人の交響曲は、
伊福部昭のものだけということになります。


戦後に日本人が作った交響曲は、
傑作駄作含めておそらく100はくだらないと思うのですが、
なんともサビシイ話です。

日本人にとっての「交響曲


それには相応の理由があります。


日本人の交響曲がそれ以降、
ヨーロッパで演奏されなくなった理由は簡単です。


ムッソリーニBenito Mussoliniのイタリアと
ヒトラーAdolf Hitlerのドイツが擡頭し、
戦乱の予感が現実のものになりつつあったヨーロッパでは、
みんな、のんびり音楽を聴いているどころではなくなってきたのです。
当時欧州に滞在していた日本人作曲家たちは、後ろ髪引かれながらも、
帰国しなければなりませんでした。


そして平和が訪れた戦後になって、
日本人の交響曲が見向きもされなかった理由も簡単です。


ヨーロッパ人は、第二次世界大戦を経験して、
それまでの西洋音楽は死んだと考えました。
新しい時代の音楽が探究されるべきだという時代に、
交響曲」なんていう古くさいジャンルは、見向きもされなくなったのです。
ましてや、アジア人の作る交響曲を演奏しようというような
物好きはどこにもいなかったのです。


これは、日本人と、日本人の音楽にとっては不幸なことでした。


ヨーロッパ人は、第二次世界大戦までの200年間に、
作りたいだけ交響曲を作りまくってきました。
だから、「もう交響曲なんて飽きた」と言っても平気だったのですが、
西洋音楽を学んでたかだか80年ほどの日本人は、
まだ交響曲というジャンルを味わい尽くしていなかったのです。


日本人にとって交響曲というジャンルは、消化不良のまま、
現在に至っています。


第二次世界大戦が、日本の音楽の可能性を
摘み取ってしまったのです。


そう考えると、昭和9年に日本人が作り、
欧州で初演された三つの交響曲が、
ひときわ重要なものに見えてきます。


交響曲」というジャンルがまだ有効だった時代に、
西洋で演奏された曲なのですから。

日本人の弱点を克服した(?)音楽


1934年に作られた諸井三郎の最初の交響曲は、
ハ短調(Cマイナー)で作られています。


説明より音楽を聴きましょう。
おお!これはカッコイイ!
なんと堂々とした音楽でしょう。


ブルックナーAnton Bruckner
リヒャルト・シュトラウスRichard Strauss
あるいはヒンデミットPaul Hindemithを思わせる
男性的な音楽です。


主題の展開といったようなややこしいリクツは
ぼくにはわかりませんが、これはたしかに
堅固な構造を持った音楽という気がします。


情緒的な曖昧さはなくて、たいへん明晰です。
音楽からなにかを連想させるような美ではなくて、
音楽それ自体で充足するような美を狙っているのに違いありません。


日本の音楽は、しばしばネガティブで情緒的になりがちですが、
諸井三郎の曲は、ポジティブで意志的です。


彼は、日本人の特質から生じる創作上の弱点
克服しようとしているのではないでしょうか。

西洋流でストイックな曲


以前のレビューで書いたとおり、諸井三郎は西洋音楽の王道を学び、
真っ正面から西洋音楽に闘いを挑んだ作曲家です。
それが、決して無謀な闘いではなかったということが、
この曲を聴いてわかりました。
彼には、それだけの豊かな才能があったのです。


この曲は、4つの楽章で作られています。
第三楽章が、たいへん鮮烈なフォルテで終わったので、
これで曲がおしまいかと思ったら、さらにもう一楽章残っていました。
その最終楽章は、熱狂を抑えたストイックな音楽で、
情緒に傾きすぎることを避けていました。
ニクイ!と思わせる構成でした。


以前紹介した、ナクソスの「日本作曲家選輯」に
収められた交響曲三番と同様、
彼の最初の交響曲も、いちどは聴く価値があります。


おそらく、彼の作るような種類の音楽は、
CDよりはコンサートで聴くべきでしょう。
CDで「ながら聴き」をしていると、
真価がわからないおそれがあります。


この曲を、ベルリンの聴衆は、
どんなふうに聴いたのでしょうか。


当時のドイツでは、すでにヒトラーが政権を取っていました。
そして音楽をはじめとする芸術の多彩さは、
次第に失われていったのです。


やがてヨーロッパとアジアは、
ふたたび戦乱に突入していきます。


せっかく、日本人の手で
これだけの曲が作られるようになったのに、
いかにも残念なことです。

この稿さらにつづきます


さて、ようやく伊藤昇の曲をご紹介する順番になりましたが、
今回はここまでにして、
つづきは次回ということにいたします。


その3へつづく→id:putchees:20051204)

*1:東京藝術大学が「芸」という文字を嫌い、「」という正字にこだわるのも、これまた有名な話です。

*2:山田耕筰がベルリンで作った「序曲ニ長調」。この曲については、過去のレビューで紹介しています→id:putchees:20051016

*3:詳細はこちらです→http://www.naxos.co.jp/title.asp?sno=8.555881&cod=2607

*4:まあ、好きな国は違っても、どっちも同じ日本人ですからね。

*5:昔は、外国(とくに欧米)に行って何事か成し遂げた人が帰国することを、こんなふうに表現したのです。外国が遠かったころの言葉ですね。

*6:大澤壽人の交響曲二番のみ、初演は翌年になりました。

*7:大澤壽人については過去のレビューをお読みください→id:putchees:20050221

*8:伊福部昭についてはこちらのレビューを→id:putchees:20051024 id:putchees:20051028 id:putchees:20050612 id:putchees:20050611 id:putchees:20050522 id:putchees:20050513 id:putchees:20041224 id:putchees:20041202 吉松隆についてはこちらをお読みください→id:putchees:20041218