戦前のアヴァンギャルド・伊藤昇のオーケストラ曲を聴く!(その3)

putchees2005-12-04


その2よりつづき


昭和のはじめの日本で、
びっくりするようなアヴァンギャルド音楽
作られていました。


伊藤昇(いとう・のぼる1903〜1993)という作曲家の
マドロスの悲哀への感覚」(1928)という曲です。


おそらく誰も知らない作品ですが*1、とても興味深い音楽です。
日本の戦前のクラシック音楽が、たいへん多彩で
エキサイティングなものであったことを教えてくれます。


今回は、その曲が演奏されたアマチュアオーケストラの
コンサートの報告をしています。


ぜひ「その1」と「その2」をお読みください。

その1id:putchees:20051126
その2id:putchees:20051130


ちなみに、今回掲げた写真は、
伊藤昇のポートレートです。

ひきつづきコンサート報告です


【今回のコンサート】
芥川也寸志メモリアル・オーケストラニッポニカ第8回演奏会
「昭和九年の交響曲シリーズ」(その1)


【日時・会場】
2005年11月20日(日) 14:30〜16:20
東京・紀尾井町紀尾井ホール


【ミュージシャン】
管弦楽:オーケストラ・ニッポニカOrchestra Nipponica
指揮:本名徹次(ほんな・てつじ)
ソプラノ:半田美和子(はんだ・みわこ)


【曲目】
伊藤昇:「マドロスの悲哀への感覚」(1930)
●伊藤昇:古きアイヌの歌の断片「シロカニペ ランラン ピシュカン」
(銀の滴降る降るまはりに)(1930)
●橋本國彦:「笛吹き女」(詩:深尾須磨子)作品6-3(1928)
●諸井三郎:ソプラノのための二つの歌曲「妹よ」「春と赤ン坊」
(詩:中原中也)(1935)
●諸井三郎:交響曲ハ短調(1934)

マドロスってなんやねん?


前置きがやけに長くなりましたが、
伊藤昇の実験的なオーケストラ曲をご紹介します。


タイトルはマドロスの悲哀への感覚」です。


なんて妙ちきりんなタイトルでしょう。


マドロス」って、オランダ語船員matroosのことですね。
戦前の本を読むとよく出てくる言葉です。
昔はマドロスというと、なにやら
エキゾチックなイメージがかき立てられたようです。
昭和のはじめには、「これぞマドロスの恋
という歌が流行ったりしてました*2


昔の日本人は、波止場でたそがれる船員の姿に、
海の向こうの遠い異国を連想したようです。


そんなわけで、ぼくが「マドロスの悲哀への感覚」
という曲名から想像したのは、
イベールJacques Ibertの「寄港地Escales」(1922)のような
エキゾチックな音楽か*3
あるいは深井史郎の「ジャワの唄声」(1942)のような
モンドなエスニックふう音楽でした*4


ところが、そのどちらともまるで違いました。


さあ、能書きは後にしてともかく聴いてみましょう。
伊藤昇の「マドロスの悲哀への感覚」です。

これ、前衛じゃん!!


コンサートの劈頭が伊藤昇の2曲でした。
拍手とともに本名徹次が登場。
指揮台に上ると、さっと両手が上がって、音楽が始まります。


演奏が始まってしばらく、
なにが起こっているのか、ぼくは理解できませんでした。
少しも、旋律らしい旋律が聞こえてこないからです。


オケはトゥッティ(総奏)なのですが、
音楽の輪郭が見えません。
ぼくはおろおろと、旋律を探して耳を澄ませます。


弦の音が弱々しいせいでメロディがわからないのかな?
と思ったのですが、どうやらそうではありません。
旋律が、もとからないせいだと気がついたのは、
しばらく経ってからです。


ごちゃっとした音の塊が、
うねうねと動くような音響が続くばかりです。


なんだこりゃ!


前衛じゃん!


これ、無調じゃないの!?


ぼくはすっかり驚いてしまいました。


どこが「マドロスの悲哀」やねん!


グジャー、グワー、ギャー」
こんな音です。


口をあんぐりと開けているうちに、
つぎつぎと曲が進んでいきます。


この曲は5つの部分で構成された組曲ですが、
びっくりしたのは3曲目の「深更当直」という部分です。
ヴァイオリンとピアノ、木管が、


ギー……ピロリン……ヒャー


といった、音楽とも効果音ともつかないような
掛け合いをするだけなのです。


これはまるで、ヴェーベルンAnton von Webernの
点描音楽のようではありませんか。


これ、いったいいつの音楽なんだ!?

最後はまたごちゃっとした音の塊が
寄せては返すといったような、
不可解な音響に戻ります。


本名徹次の指揮を見ていると、
拍子がめまぐるしく変わっているようです。
まるで、ジョン・ケージJohn Cage
オーケストラ曲の指揮でも見ているようです。


どこかでメロディアスになるのかと思って聴いていたら、
ついに最後まで混濁した音響のまま終わってしまいました。


これで終わりかよ!!
ぼくは呆然としてしまいました。


ヨーロッパの洗練された十二音音楽にくらべれば、
いかにもやぼったいスタイルですが、
これはまぎれもない無調音楽です。


作曲年代を事前に知っていたことが予断になって、
すっかり不意打ちを食らってしまいました。
まさか、昭和初年にこんな曲が作られているとは
夢にも思わなかったのです。


いったいどうやってこんな曲が生まれたんだ!?


ぼくは改めてプログラムの解説を読み直してみました。

マドロスの悲哀」という本


片山杜秀の解説を読むと、
この曲は大正のはじめに出版された
マドロスの悲哀(かなしみ)」(1916)という本に
インスパイアされて作られた曲ということのようです。


それで、妙ちきりんなタイトルの謎が解けました。
「感覚」というのは、どうやら現代の日本語で
「印象」というのに近い意味合いのようです。


マドロスの悲哀」という本を読んだ印象を
つづった曲ということですね。


その本は、海外航路の船員の、
厳しい仕事をつづっているそうです。


マドロスの悲哀」自体は大正5年の出版ですが、
その内容がちょうど、労働運動が盛り上がっていた
昭和はじめの空気に合ったのでしょう。
伊藤昇は、モダンで先鋭的な音楽のモチーフとして、
現代の抑圧された船員生活を
音楽に仕立てようと考えたようです。

日本における革新思想


昭和初期には、日本の知識層にはすでに
マルクス主義Marxismが深く浸透していました。
当時もっともモダンで先鋭的な思想だったので、
大学生や芸術家、そしていわゆる知識人が、
こぞってマルクス主義にかぶれました。


これこそ、日本の抱えるさまざまな問題を
一挙に解決する思想だというわけです。


マルクス主義は、日本では戦後に一般まで広まった
思想だと思われていますが、実際には、
昭和初年において日本でもっとも影響力をもった思想でした。


そして1928〜29年には、プロレタリア文学の運動が
はげしい盛り上がりを見せました*5


そうした時代の空気の中で、
作曲家たちも、のんびりとロマンチックな曲ばかり
作っていてはイカンというわけです。


したがって現代には、前衛的で「非音楽的」な音楽
似合うというわけです。


そういうことを考えた音楽家で有名なのは、
イタリアの未来派Futurismo*6
ソビエトアヴァンギャルド作曲家*7たちでしたが、
日本にも、同じようなことを考えた人がいたわけです。

日本の都市生活者


一方、関東大震災(1923)のあとの東京市*8の復興事業で、
東京の中心部から江戸時代のおもかげは消え失せ、
新たなモダン都市が登場しました。


同潤会(どうじゅんかい)の近代的なアパートメント
代官山、表参道、江戸川橋など、
東京市内のあちこちに登場したのが、ちょうどこの時期です。


銀座では洋装のモボモガが颯爽と歩き始めました。
流行に敏感な都市生活者が、この国にも登場したのです。


彼らは資産家の子弟、
あるいは「〜商会」といったような商社に勤める給与生活者で、
それなりの余暇があり、「キング」などといった大衆雑誌よりは
中央公論」や「改造」といったインテリ向けの雑誌を読み、
英語やフランス語の教室に通ったりしていて、
休日には演劇や映画を楽しむだけでなく、泰西名画の展覧会に出かけたり、
レコードで西洋のクラシックを聴き、西洋の有名音楽家
来るとなれば、その演奏会にも出かけるといったような
生活スタイルでした*9


まあ、そんな優雅な人がどのくらいいたかわかりませんが、
そんな人って、なんだか、現代の東京の住人と
さして変わりがないように感じませんか?


1920年代の東京は、すでにそれだけの現代的な都市だったのです。


彼らは最新流行を追って、ことさら新奇なものを求めました。
芸術においても、欧州の最先端を行くようなものが喜ばれました。
シュルレアリスムsurrealismやダダイズムといった新潮流が、
日本にも流入しはじめた時期です。


そうなると、日本人作曲家も、ヨーロッパの古くさい
古典派やロマン派のマネばかりしているわけにはいきません。
もっと新しい、20世紀音楽を見本にしなきゃイカンというわけです。

西洋音楽の最新技法を貪欲に吸収


前の二段で書いたような、
労働運動の高まりと、都市中産層の増加、
そのふたつの潮流を受けて伊藤昇が作ったのが、
マドロスの悲哀への感覚」だったと言えるのではないでしょうか。


つまり、同世代に共感を呼ぶ、抑圧される現代人というモチーフを、
都会のスノッブに喜ばれるエキセントリックな手法で表現したわけです。


まさに、同時代の欧州文化におけるのと同じような状況が、
日本の芸術界にもあらわれたというわけです。


伊藤昇は、当時最新鋭の欧州作曲家たち、
シェーンベルクArnord Schoenbergや
ストラヴィンスキーIgor Stravinsky
ダリウス・ミヨーDarius Milhaudや
アロイス・ハーバAlois Habaの影響を受けていたそうです。


シェーンベルク無調音楽atonalityを技法として確立した作曲家、、
ストラヴィンスキーは20世紀的バーバリズム創始者
ミヨーは多調性(ポリトーナルpolytonality)の第一人者、
ハーバは微分microtoneを探求した代表的な作曲家でした。


伊藤昇は、それら欧州の音楽の最新手法を、
すべて飲み込んでいたようです。


無調という音楽の手法自体は12音技法以前から存在しましたが、
伊藤昇は、シェーンベルクの手法をヒントにしているようです。


シェーンベルクが12音技法を確立したのが1921年
伊藤昇が「マドロスの悲哀への感覚」を作ったのが1930年。


生まれてからわずか10年足らずの技法を、
すでに日本人が取り入れていたのです。


もっとも、伊藤昇の無調の技法は、
12の半音階を均等に使う、ウィーン流の厳密なやりかたではなく、
ひとつの五音音階(ペンタトニックスケールpentatonic scale)を、
音程をずらして鳴らすことで、無調的な響きを得るという
独自の手法だったようです。


伊藤昇は、無調のほかに、多調性や微分音も、
自作の中で試みているようです。


音楽史の中では完全に忘れ去られていますが、
これは驚くべきことです。


いったいどうやって、こんな突然変異みたいな
作曲家が現れたのでしょうか。

さらにつづきます


だらだらと長くなってスミマセン。
この稿、さらにつづきます。


その4へつづく→id:putchees:20051208)

*1:ぼくも知りませんでした。

*2:1931年のドイツ映画「狂乱のモンテカルロBomben auf Monte-Carlo」(日本公開は1934年)の劇中歌を奥田良三が歌って、1934年のヒット曲になりました。なお、この「狂乱のモンテカルロ」を、小説の執筆に倦んで逐電した江戸川乱歩が、帝劇(帝国劇場)まで見に行ったそうです。

*3:イベールについては、過去のレビューをご覧ください→id:putchees:20051102

*4:「ジャワの唄声」については、過去のレビューをお読みください→id:putchees:20050607

*5:もっとも、大日本帝国憲法下でそうした社会改革運動が放置されるはずはなく、日本政府は、そうした「主義者」「アカ」をたちまち根絶やしにしてしまうのですが。

*6:ルイジ・ルッソロLuigi Russolo1885-1947など。

*7:アレクサンドル・モソロフAlexander Mosolov1900〜1973など。

*8:東京府東京市が合併して「東京都」が誕生するのは第二次世界大戦中の1943年。

*9:谷崎潤一郎の「痴人の愛」の主人公を思い浮かべてみてください。