戦前のアヴァンギャルド・伊藤昇のオーケストラ曲を聴く!(その4)

putchees2005-12-08


その3よりつづき


1930年に日本で作られた、びっくりするような
アヴァンギャルド音楽をご紹介しています。


伊藤昇という作曲家の
マドロスの悲哀への感覚」という妙ちきりんな
タイトルのオーケストラ曲です。


この曲の演奏会に行ってきたのですが、
タイトル以上に妙ちきりんな音楽だったので、
すっかりビックリしてしまいました。


あまり面白いので、ご紹介しようというわけです。


その話が長くなって、ついに第4回になってしまいました。
今回と次回で完結ですから、最後までおつきあいください。


興味のある方は、
「その1」「その2」「その3」を順にお読みください。


その1id:putchees:20051126
その2id:putchees:20051130
その3id:putchees:20051204

引き続きコンサート報告です


【今回のコンサート】
芥川也寸志メモリアル・オーケストラニッポニカ第8回演奏会
「昭和九年の交響曲シリーズ」(その1)


【日時・会場】
2005年11月20日(日) 14:30〜16:20
東京・紀尾井町紀尾井ホール


【ミュージシャン】
管弦楽:オーケストラ・ニッポニカOrchestra Nipponica
指揮:本名徹次(ほんな・てつじ)
ソプラノ:半田美和子(はんだ・みわこ)


【曲目】
伊藤昇:「マドロスの悲哀への感覚」(1930)
●伊藤昇:古きアイヌの歌の断片「シロカニペ ランラン ピシュカン」
(銀の滴降る降るまはりに)(1930)
●橋本國彦:「笛吹き女」(詩:深尾須磨子)作品6-3(1928)
●諸井三郎:ソプラノのための二つの歌曲「妹よ」「春と赤ン坊」
(詩:中原中也)(1935)
●諸井三郎:交響曲ハ短調(1934)

無調音楽って何?


ここで、「無調atonality」という言葉について
ごくかいつまんで解説しておきましょう。


ギターやピアノを演奏する人なら、
ヘ長調」とか「Fメジャー」などの言葉を
ご存じでしょう。


キー(調)がFメジャーの曲だと、
曲の終わりは必ずFのコードになります。
Fマイナーだと、曲の終わりはFマイナーになります。


とくにギターを弾く人は、キーを意識しないで演奏することは
まずありえないでしょう。


もちろんギター以外の楽器奏者でも、五線紙に
フラットやシャープがいくつ付いているか、
常に意識しながら演奏しているに違いありません。


どんな曲にも、メジャーかマイナーの「調key」があります。
それは曲の中心になる音なりコードが決まっているということです。


17世紀以降の西洋音楽は、
長調major keyと短調minor keyの
いずれかの調性tonalityを持っています。


曲全体が、ひとつの音を中心として組織されることで、
音楽が統一性をもつというわけです。
いかにもヨーロッパ的な考え方です。


ところが、19世紀後半から、革新的な作曲家たちが、
この枠組みを越えようとしはじめます。


おそらく彼らは、音楽が長調短調の二種類しかないなんて
窮屈だとでも考えたのでしょう。


中心となる音がなくたって、
統一性のある音楽は作ることができるはずだ、というわけです。


無調」つまり「調がない」音楽の模索が始まったのです。


それを最も意識的なやりかたで行なったのが、
20世紀初頭にウィーンにいた、
シェーンベルクArnord Schoenbergとその弟子たちでした。


そして1920年代初頭に彼らの手で完成された
十二音音楽dodekaphonie」は、
当時もっとも洗練された無調音楽の作り方でした*1


簡単に言えば、1オクターブに含まれるすべての
半音を均等に使うことで、中心となる音を
なくしてしまうというやり方です。


そんな曲、フォークギターじゃ弾けやしません。
なにしろ、ぼくらが知ってるような種類のコードは
いっさい使われないのですから。


ということから想像できるように、
無調音楽は、えらいヘンテコな音です。
聴いていると、たいていの人が不安な気持ちになります。


映画のラブシーンには、とても使えません。
ラブホテルのBGMにも使えません。
ホラー映画か、別れ話の修羅場にでも似合いそうです。


もちろん、演奏だって困難を極めます。
一般のクラシックファンが聴きたがるような音楽ではなくて、
ごく一部の物好きが聴くような、もてない音楽です。


日本で本格的な「十二音音楽」を最初に作ったのは
入野義朗(いりの・よしろう1921〜1980)だということですが、
その年代は1951年。


伊藤昇の作品は、それを20年以上もさかのぼることになります。
(12音音楽ではなくて、調性感が希薄な音楽、という感じですが)


まさに知られざる先駆者という感じです。
もてない音楽の先駆者とでも言いましょうか。


いったいどうして、こんな先走った人が日本に現れたのでしょう?

西洋の最新流行が日本に


1920年代になると、日本には、
欧州の芸術の最新情報が届くようになっていました。


当時は船便でしたから、情報の伝達には、21世紀の現在より
はるかに多くの時間がかかりましたが、それでも
だいたいひと月遅れで、たとえばパリの最新流行
東京まで届くようになっていたのです。


日本人は、西洋文化をゼロから学ぶという段階を終え、
その応用につとめるようになっていました。


そんな中、一部の先進的な人たちが、
欧州文化の最新動向に目を向け始めたのは必然でした。
折しも、欧州ではキュビズムcubismや
表現主義expressionism、ダダdada、
未来派fururism、シュルレアリスムsurrealismなどの
まったく新しい(と思われた)芸術が澎湃として起こっていました。
それらはしばしば、前衛的な表現をともなっていました。

1920年代日本のアヴァンギャルド


1920年代の日本では、欧州の影響を受け、文化の各分野で
アヴァンギャルドな創作に手を染める人が現れてきました。


たとえば文学の世界。
詩人の高橋新吉(たかはし・しんきち)は、
1923年に「ダダイスト新吉の詩」を発表しました。
また瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう)は、
シュルレアリスムを早くから紹介し、後には
アンドレ・ブルトンAndre Bretonの影響から
自動記述ecriture automatiqueを試みています。


そして美術界
この分野では早くから西欧の前衛芸術の影響が顕著でした。
この時期の代表的な人物は、
たとえば古賀春江(こが・はるえ)です。彼は
1920年代前半から前衛的な作品を発表していました。
1929年には傑作「春」を描いています*2


演劇の分野では、ドイツに学んだ村山知義
(むらやま・ともよし)が、1924年築地小劇場
前衛演劇を上演しました。彼は演劇や写真、
美術など、他分野にわたって活躍しました。


写真の分野では、1920年代末以降活躍した、
堀野正雄(ほりの・まさお)らが中心となって
「新興写真研究会」を結成し(1930)、
日本のモダニズム写真をリードしました。


映画では衣笠貞之助(きぬがさ・ていのすけ)が
1926年に「狂った一頁」を撮っています*3


日本のインテリ文化全体が、こういう雰囲気だったのです。
それなら、音楽界にもアヴァンギャルドな指向の人がいて、
いっこうに不思議ではありません。


音楽の分野だけ見ていると、伊藤昇の作品は
まるで突然変異のように感じられますが、
視野を広げてみると、彼の登場は
決して理解不能なことではないのです。

前衛に絶望して転向


マドロスの悲哀への感覚」は、伊藤昇の師・菅原明朗の指揮で、
1930年に初演されました。


はたして、東京の聴衆は、
この曲にどんな判断を下したのでしょう。


おそらく、ほとんどまったく
理解されなかったのではないでしょうか。


もし好評だったなら、多くの人の記憶に残ったはずですし、
伊藤昇は、その後も同じ路線の曲を作り、
前衛の道をひた走ったに違いありません。


ところが、そうならなかったところを見ると、
決して好評ではなかったということが想像されます。


残念なことに、当時の日本の聴衆は、
いくら欧州の最新動向に敏感になったとはいえ、
前衛音楽を受け入れるほどには成熟していなかったのです。


あまりに早すぎた前衛の旗手は、
まもなく自ら前衛的手法を捨ててしまいます。

フィンランドに似たような人が


ちょうど同じ時期、遠くフィンランドSuomiでは、作曲家の
アーッレ・メリカントAarre Merikanto(1893〜1958)が
アヴァンギャルド音楽を発表して聴衆の反発に遭っていました。


リカントはやがて保守的なロマン派ふうの音楽へ転向します。


フィンランド西洋音楽後進国で、
日本といくぶん似たような状況でした。


ユーラシア大陸の東端と北端で、
同じ時期に同じようなことが起こっていたというのは、
たいへん興味深いことです。


さて、伊藤昇のその後の歩みはどのようなものだったのでしょうか?

次回で完結です


もう少し話が長くなりそうなので、
きょうはここまでにしましょう。


この稿、もう一回だけつづきます。
次回で完結ですから、勘弁してください


その5へつづく→id:putchees:20051210)

*1:シェーンベルク自身は「無調」という言葉のネガティブなイメージを嫌って、「汎調性pantonality」という言葉を使ったようです。

*2:今回、冒頭に掲げた画像は、古賀春江1930年の作品「窓外の化粧」です。

*3:この映画の撮影を担当したのは円谷英二つぶらや・えいじ1901〜1970)でした。