新日本フィルの「火刑台のジャンヌ・ダルク」を聴く!

putchees2006-02-25


日本人の奇妙な結婚式


いつも奇妙に思うのが、
クリスチャンでもないのに、キリスト教式の
結婚式を挙げる人たちです。


神に永遠の愛を誓います…って、
それ、どこの神やねん!と、
ツッコマないではいられません。


だいたい、この教会は
カソリックなのか? プロテスタントなのか?
それすらわかりません。*1


そんなことおかまいなしで、
うっとりとしながら賛美歌を歌う人たちを見るたびに、
強烈な違和感にとらわれます。


この国は無思想の国だから、
そんなことどうでもいいのかもしれません。


しかし欧米人から見れば、ぼくたちは
サルみたいなものだと思われます。


日本人はそろそろ、こういう後進国的な風習
やめたほうがいいのではないでしょうか。


でもって、昔ながらの神前結婚式がカッコイイという
傾向にならないでしょうか。
ならないでしょうけど。


さて今回は、フランスのオネゲル(Arthur Honegger1892-1955)
という作曲家が作った、オペラ風のオラトリオ、
火刑台のジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc au bucher」
を見てきました。


古くさい音楽じゃありません。
この曲は、1935年に作られています。
サックスやオンド・マルトノOndes Martenotという電子楽器まで
使われた、モダンで先鋭的な音楽です。
かといって前衛じゃなくて、誰が聴いてもわかる、
美しい曲です。


音楽は面白いのですが、
モチーフがモチーフだけに、
クリスチャンでもないぼくたちが理解するのは、
なかなかムツカシそうです。


どんな演奏会だったでしょうか。

今回はコンサート報告です


【今回のコンサート】
新日本フィルハーモニー交響楽団 第396回定期演奏会
オネゲル作曲:劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク
(コンサート・オペラ形式・日本語字幕付)


【日時】
2006年2月11日 15:00〜16:15
すみだトリフォニーホール(東京・錦糸町


【ミュージシャン】
指揮:クリスティアン・アルミンク
管弦楽新日本フィルハーモニー交響楽団
オンド・マルトノ:原田節
合唱:栗友会合唱団 東京少年少女合唱隊


【出演】
ジャンヌ・ダルク:アンヌ・ベネント
修道士ドミニク:フランク・ホフマン


【スタッフ】
演出:三浦安
舞台監督:幸泉浩
字幕:実相寺昭雄

フランスのモダニストオネゲル


きょうは、小澤征爾(おざわ・せいじ)とゆかりの深い
東京のオーケストラ、新日本フィルの演奏会です。


(新日本フィル)


指揮はオーストリア生まれの
クリスティアン・アルミンクChristian Arming。
彼は現在、新日本フィル音楽監督です。


(クリスティアン・アルミンク)


今回の「火刑台のジャンヌ・ダルク」は、
日本での公演は、実に10年ぶりだそうです。


フランス六人組Le Groupe des Sixのひとりで、
20世紀前半を代表する作曲家のひとり
であるオネゲルの代表作です。


アルチュール・オネゲルは、1892年にルアーブルLe Havreで生まれ、
1955年にパリで死にました。


(アルチュール・オネゲル)


大戦間のフランスでは、ほぼ同世代のイベールJacques Ibert、
ミヨーDarius Milhaud、プーランクFrancis Poulencなどと
並ぶ大作曲家でした*2


火刑台のジャンヌ・ダルク」は、1935年に作られました。
外交官・作家のポール・クローデルPaul Claudel*3が台本を書き、
伝説の舞踏家イダ・ルビンシュタインIda Rubinsteinが主演で、
1938年に初演されました。


この作品は、主役は歌いません
演劇のようにフツウの台詞をしゃべるだけです。
これは、初演者のルビンシュタインが、歌手ではなかったからです*4


主役の周囲を音楽で埋め尽くし、
主役は対話と独白をするだけというスタイルが取られています。


20世紀作品ならではのモダンなスタイルです。


主役が歌わない音楽作品で、主役を主役たらしめるのは、
たいへん難しいことです。


そのハードルを軽々と越えてしまうのが、
天才オネゲルの面目躍如たるところです。


物語は、救国の英雄ジャンヌ・ダルクとは何だったのか?
というのがテーマのようです。


今回の演奏は、コンサート・オペラ形式というやつでした。
オーケストラがピットではなくて舞台の上に乗っていて、
その周辺でオペラ歌手たちが演じ歌うというスタイルです。


歌手(役者)たちは、狭い舞台で、
ときにオケの楽器の間を歩きながら熱演していました。


いささかきゅうくつな印象ではありましたが、
演劇部分と音楽が一体化した、
この作品には合っていたように思います。

日本人のフランス語


演奏が始まります。
冒頭の「フランスにジャンヌという名の少女がいた」
というセリフから、ちょっと不安になりました


このフランス語、発音大丈夫なのかしら?


それぞれの日本人歌手は、フランス語がぺらぺらなのかもしれませんが、
それでも、生来のフランス語話者ではないはずですから、
どっかおかしなところがあるのではないでしょうか。


いや、発音以前の問題で、
黄色い肌の日本人が、もっともらしい顔をして
フランス語の宗教的なセリフを歌っていることに、
強い違和感を覚えたのです。


そんなこと言ってもしょうがないのですが、
気になるものは気になります。


メインのふたりをのぞいて、
出演者のほとんどは日本人の歌手なので、
公演の間、ずっと違和感を感じていました。


音楽は高密度の、すばらしいオーケストラ曲でした。
オネゲルの曲は、モダンで、古典的で、なめらかで、
先鋭的で、清らかで、まがまがしいものでした。


アルトサックスオンド・マルトノも、あちこちで大活躍でした。
なんて色彩豊かな音楽なのでしょう!

物語の核心はわからない


ぼくはこの曲をこれまでCDで聴いていましたが、
ものぐさなので、わざわざ台本を見ながら
聴くということをしてませんでした。
そのため、物語の詳しい内容は知りませんでした
今回、日本語の字幕でようやく物語の内容を知ることができました*5


わずか1時間強の作品ですから、それほど複雑な話ではないのですが、
正直なところ、一回見ただけでは、よくわかりませんでした


この過酷な運命もまた神の愛なのだ!


と、死刑に処されるジャンヌが感動にむせぶのはわかったのですが、
クローデルの台本は、ちょっとひねってあるので、
何度も咀嚼しないとわからないかもしれないと思いました。


もっとも、わからないのは
ぼくのオツムが弱いせいかもしれません。


しかし、だいたい「神の愛」というのが、
クリスチャンでもないぼくたちにはよくわかりません。


なんでエエやつが死ななアカンねん!
と、つい思ってしまいます。


しょせんぼくらは、異教の民ですから、
キリスト教の神の愛なんて(頭ではわかっても)、
実感できないのではないでしょうか。

日本人にはキリスト教はわからない


今回は演奏の前に、指揮のアルミンクと演出家の対談が
行われていました。


曲解説のほかに、アルミンクから演出家への質問があったのですが、
その中で


「こういう宗教色の濃い曲を、
クリスチャンでない日本人が演奏することをどう考えますか?」


という、しごくもっともな問いがありました。


演出家は口ごもりながら
「たしかに難しい点はありますが、それでも
クリスチャンでない日本人が演奏することに意味はあると思います」
と答えていました。


そう答えるほかないでしょう。
無意味だと思ったら、上演なんてできませんから。


しかしそれでも、本質的なところで困難を抱えていると
思わざるを得ません。


ちょっと間違うと、
キリスト教式の結婚式をマネしているサルのような
演奏になってしまうのではないでしょうか。

汝らは異教徒なれば


フランス革命200年を記念して行われた、
この曲のパリ公演では、日本人の小澤征爾がタクトを振り、
圧倒的な成功を収めています。


(そのときの演奏が収められたCD ASIN:B000026C4J)


これだけの古典的な音楽を奏でるのに、
宗教性をうんぬんするのは野暮天なのかもしれません。


しかし、言葉や思想(宗教)が入る音楽は、
聴く際に身構えざるをえません。


本質的に、外国のものはわからないからです。
ましてや、キリスト教のものとなるとなおさらです。


なんでわかんないの?


という人は、民族の違いを甘く見ています。


モーツァルトMozartのレクイエムRequiemも、
ヘンデルHandelメサイアMessiahも、
ぼくたちは真にそのよさを理解してはいないと謙虚に知るべきです。


だってクリスチャンじゃないんだもん!*6

わからないものはわからない


とはいえ、この作品はすばらしい音楽ですし、
すべての名作が持つ、普遍的な美に溢れています。
それらは、宗教や民族の違いを超えて理解されるものでしょう。


ぼくが「そりゃ違うだろう」と思うのは、
この作品のすべてが理解できるような顔をしている日本人たちです。


本をたくさん読んで、西洋文化への造詣を深めても、
異文化の核心に触れることは不可能でしょう。


わからないものはわからないと言うほうが、
よほど誠実だと、ぼくは思います。


ぼくたち日本人が、こうしたヨーロッパの
宗教作品を演じる意味があるとすれば、
異教徒ならではの解釈で、当のヨーロッパ人にはわからない
美質を指摘してあげることです。


きょうの演奏が、それだけの価値あるものだったかどうかは、
ぼくにはわかりません。


それなりには面白かったのですが、
なにしろ、チケットが10,000円と、たいへん高価でしたしね。


サルがキリスト教式の結婚式をマネしているような
演奏になっていなければ幸いです。

デートには使えないステージ


ぼくが訪れた2月11日の公演では、
土曜日ということもあって、客席は満席でした。


ハイソな雰囲気のお客さんたちがたくさん訪れていましたが、
みなさん、このステージを心から楽しめたでしょうか?


とにかく、わかりやすい筋書きじゃないですから、
女の子に「ステキ!」と言わせられるステージではないことは明白です。


もし女の子とのデートに使ったとしても、ホールを出たあと、
このステージの話題では盛り上がらないことうけあいです。


終演後に、ロビーで知人と立ち話をしたのですが、
ふたりの共通した意見は、こうでした。


「こんなの聴いても、女の子にはぜったいにもてないよねぇ」


(この稿完)


次回瀬戸内寂聴が台本を書き、
三木稔が作曲したグランドオペラ「愛怨」初演のレポートをお届けします)

*1:「誓いマスカァ?」としゃべってる白人の聖職者(もどき?)は、カソリックの神父fatherなのでしょうか? プロテスタントの牧師ministerなのでしょうか?

*2:オネゲルの両親はスイス人で、スイスの作曲家と呼ばれることもあります。現在のスイスの20フラン紙幣には、オネゲルの肖像が描かれています。

*3:彼は1921年から1927年まで駐日フランス大使をつとめたことで知られます。

*4:彼女は大戦間のパリにおける芸術家たちのアイドルでした。

*5:字幕の文字が小さすぎて、近眼のぼくにとってはつらい仕打ちでした。

*6:じゃあキリスト教の洗礼を受けさえすれば、こうしたキリスト教に根ざした藝術がすぐ理解できるようになるかというと、それも間違いでしょう。キリスト教はヨーロッパで発展した文化なので、アジア人のぼくらには、結局の所、彼らの中に根付くキリスト教文化は、永遠に理解できないと思われます。残念でした!