瀬戸内寂聴&三木稔のオペラ「愛怨」は大娯楽作なのだ!(後編)

putchees2006-03-06


前編よりつづき


小説家の瀬戸内寂聴
作曲家の三木稔が組んだ、
新作オペラ「愛怨」
世界初演レポートを書いています。


テレビや新聞で少しは話題になったので、
ご存じの方も多いでしょう。


韓流ドラマ顔負けの、べたべたのメロドラマです。
なかなか痛快な娯楽作でした。


興味のある方は、前編からお読みください→
id:putchees:20060301

日本の倫理は「情」と「義」に尽きる


さて、物語のラストは、禁じられた琵琶曲「愛怨」
演奏したことがバレてしまった柳玲が、浄人ともども
死を覚悟するのですが、ちょうど反乱軍が皇帝の宮殿に
押しかけてきて、そのどさくさでどうやらふたりが
助かりそうだ、というところで幕切れになります。


フィナーレは、主役ふたりが「愛こそがすべて〜」
みたいなことを歌って終わりです。


笑ってはいけません。


日本の芸能では、(もしくは)に殉ずることこそ、
最高の価値なのです。


「愛」という言葉は西洋的ですから、昔ながらに
「情」と言い換えてもいいでしょう。


情もしくは義に殉じることは、宗教的規範を持たない
日本人のはぐくんできた、唯一の倫理だったといえます。


歌舞伎や人形浄瑠璃を見ればわかるとおり、
心中と仇討ちは、尽きることのない二大テーマです。


これこそ日本の伝統です。
だからこそ瀬戸内寂聴は、伝統を踏まえて
こういう幕切れを用意したのでしょう。


最後にとってつけたように神だの何だのという
ごたいそうなテーマが出てくるより、
「愛がすべてだ〜」でいさぎよく終わらせるほうが、
よほど好感が持てます。


どうせぼくらは日本人なのです。
「神」なんて出てきてもそらぞらしく感じるだけです。

四国徳島の明るい風土


それにしても、
この舞台のあっけらかんとした明るさはどうでしょう。
悲しい運命の物語でありながら、まったく暗さがありません。


そういえば、瀬戸内寂聴三木稔も、阿波徳島出身です。
阿波踊りの陽気なリズムが似合う南国です。


ぼく自身が阿波踊りをやっているから多少わかるのですが、
ああいう風土からは、深刻な文化は生まれてこないでしょう。
だからこそ、この舞台も、生を肯定する
陽気なオペラになったのに違いありません。


たしかに、うるさい評論家は、
あまりに軽い娯楽作だと言って、
この作品をけなすかもしれません。


たしかに、商業演劇やミュージカル顔負けの娯楽っぷりです。


しかし、軽いのがなぜ悪いのでしょう。

徹底した娯楽は娯楽以上のもの


劇作家の中島かずきが、
岸田國士戯曲賞受賞のあとのインタビューで、
こういった意味のことを話していました。


「高校時代の演劇で、わかりやすい娯楽芝居を作ると、
先生たちの評判が悪かった。それで、ちょっとだけ
難解な要素を付け加えてみたら、先生がほめた
そんなものかと思って、以後は先生向けに
ちょっとだけもっともらしくして、あとは
自分のやりたい娯楽を書くようにした。」


細部は忘れましたが、
だいたいこういったことです。


このエピソードが語っているのは、
日本人が考える「ゲージュツ」というものの
レベルの低さです。


しょせん、日本の評論家たちのレベルは、
この話に出てくる高校の先生たちと同じなのです。


彼の所属する劇団☆新感線の芝居を
ごらんになったことがある人は、
よくご存じだと思いますが、徹底した娯楽です。


それでいいのではないでしょうか。


詩人ゲーテGoetheはこう言っています。


その種において完全なものはその種を超える。


ぼくの好きな言葉です。


いま話していることに当てはめるなら、
完璧な娯楽は、娯楽であることを超えてしまうということです。
中島かずきの芝居は、まさにそのようなものです。


また作曲家伊福部昭はこう言っています。


ほんとうにいい味噌は味噌臭くない。
ほんとうにいい芸術というのは、芸術臭くない。


これも大好きな言葉です。


いかにも芸術くさい「ゲージュツ」は、二流だということです。


ところがこの日本では、
ゲージュツくさいものが珍重されるのです。
要するに、評論家連中がなにもわかっていないのです。


なにがいいものかわからないから、
とりあえずゲージュツくさいものにたかるのです。
ハエみたいなものだと思えばいいでしょう。


作り手はそんなこと気にせず、好きなことをやればいいのです。
内容に自信があるなら、どんなものでも堂々と
出せばいいではありませんか。


自信がないから、作り手のほうでも、
これはゲージュツだからとか、
わけのわからないリクツをこねて自己弁護するのです。


そんな悪循環はとっとと絶つがいいと思います。

あっぱれ三木稔


ぼく自身の正直な感想を述べると、
「愛怨」のシナリオには、さまざまな要素をつぎ込みすぎて、
いささか消化不良になっているところがありました。


音楽的にも、琵琶独奏の部分以外は、
さして印象的ではありませんでした。
大傑作かというと、そういうわけではないように思います。


しかし、日本語オペラを一般に普及させるという
三木稔の思いは、こうした純然たる娯楽作でこそ
遂げられるのでしょう。


その意味では、このオペラは大成功だったと
言えるのではないでしょうか。


ラストシーンの脳天気なアリアを聴きながら、
よくぞここまで徹底した娯楽作にしたものだと、
ぼくはほとんどあきれ返っていました。


あっぱれ三木稔です。


昨年、日本語版が初演された「じょうるり」などの
オペラも、見てみたいと思いました*1

9作目のオペラを目指して


終演後のロビーで、三木稔が晴れがましい笑顔で
観客ひとりひとりの賞賛にこたえていました


三木稔は、この「愛怨」初演の10日ほど前に、
多大な影響を受けた師・伊福部昭の訃報に接しています。


その悲しみを乗り越えて、初演を迎えたことに、
感慨もひとしおだったことでしょう。


三木稔は、日本史に材を取ったオペラを8作品書き上げ、
自身の創作にひと区切りがついたと感じたそうです。
ところがこのところ、さらなる新作オペラ創作の意欲が、
日々わき上がっているのだそうです。


その題材は、日本の近代史、そのなかでも、
日中戦争から第二次世界大戦にかけての時代に
なりそうだということです。


軍国少年として育ち、敗戦を経験して、
戦争を強く憎むようになった三木稔が、
どのような作品を作るのか、たいへん楽しみです。


何年後になるかわかりませんが、
その完成の日を待ちたいと思います。


それにしても、三木稔のアクティブなバイタリティには、
ほんとうに驚かされます。彼はもう75歳なのです。


各メディアでは瀬戸内寂聴の扱いのほうが大きかったのですが、
このオペラの立役者は、なんといっても三木稔その人です。


物作りにたずさわる人は、彼の姿勢に学ぶところが
多いのではないでしょうか。


このオペラを見た人の中で、
三木稔の音楽に興味を持った人は、
ぜひいちど、彼の器楽曲を聴いてみてください。


二十弦筝の「芽生え」「華やぎ」
尺八のためのソネット「秋の曲」
邦楽器合奏のための「コンチェルト・レクイエム」
そしてオーケストラのための「急の曲」など、
傑作がそろっていますよ。

たまにはオペラもいいかも


好きな作曲家の作品とはいえ、
自分がまさかオペラを見に行くなんて、
妙な気分です。


しかし、たまには自分らしくないことをするのもいいものです。


新国立劇場は豪華ですから、
女の子とデートに来るのによさそうです。


今度はそうします。お金を貯めて、モテそうな
トゥーランドットでも見に来ようっと。


あ、でも、一緒に行く女の子がいない!
いつももてない音楽ばかり聴いているからなあ!


(この稿完)


(次回は、ひさびさにCD紹介です。内容は未定)

*1:「じょうるり」について、評論家の片山杜秀は、「高邁きわまる傑作」と述べています。