世界史上最大のヒットソング「素敵なあなた」を聴け!(前編)

putchees2006-08-07


ナチスドイツのヒット曲


1938年、ナチスNazis政権下のドイツで、
あるポップソングが爆発的に流行しました。


きっかけはラジオ放送でした。


その歌は南ドイツ語Bayerischで歌われていました。
哀愁のこもったマイナーキーで、覚えやすく、
誰もが口ずさみたくなるようなメロディでした。


多くのドイツ人が、ヒトラーHitlerと
ナチス党に対する賛辞の合間に、
そのメロディを口ずさんでいたのでした。


ところがやがて、その歌が大問題になりました。


その歌は、前年の1937年に、
アメリカ合衆国で(英語版が)史上空前の大ヒットを遂げていました。
歌手はアンドリュース・シスターズAndrews Sisters、
リリースはデッカ・レコードDeccaでした。


ドイツ語版は、その翻訳でした。


ドイツのみならず、欧州全土、さらには極東の日本にまで
その歌はあまねく知れ渡っていました*1


なぜドイツだけで問題になったのでしょう?


なぜならその歌は、
もともと合衆国のユダヤが作った
イディッシュ語Yiddishの歌だったのです*2


ドイツ語版がもとにした英語版は、
もともとのイディッシュ語の歌詞とまったく別ものだったので、
原曲に濃厚なユダヤ文化の色が消えていたのでした。


ナチス党の党首ヒトラー
反ユダヤ主義anti-Semitismを掲げていましたから、
ユダヤ人のメロディがドイツに入ってくるなんて、
到底許されないことでした。


第二次世界大戦を目前にして、
ナチスの統制は苛烈を極めていましたが、
その網の目をくぐって、最良のユダヤ文化が
ドイツに忍び込んできたのでした。


その歌は素性がわかったとたんに禁止されてしまいましたが、
ナチスに抑圧された人々にとっては、
ある種、痛快な出来事だったのではないでしょうか。


その歌のタイトルは
「バイ・ミア・ビスト・ドゥ・シェーンBei Mir Bist Du Schon」、
原曲のイディッシュ語のタイトルは
「バイ・ミア・ビストゥ・シェインBay Mir Bistu Sheyn」
でした。


日本語タイトルは「素敵なあなた」です。


ベニー・グッドマンBenny Goodmanなどが取り上げ、
ジャズのスタンダードになっていますから*3
メロディをご存じの方もいることでしょう。


この曲は、第二次世界大戦中のソビエト連邦では、
ドイツに対する抵抗歌として歌われていました。


悲惨な大戦争の直前に生まれた、
まさに世界的なヒットソングでした。


この歌がたどった運命は、たいへん数奇なものでした。


今回は、この歌が収められたCDをご紹介します。
それとともに、簡単に北米ユダヤ人の歴史をひもといてみましょう。

今回はCD紹介です


【今回のCD】
American Classics
ユダヤ人の作曲家による舞台の歌曲集 第2集
〜セクンダ、オルシャネツスキーと仲間たち」
Great Songs of the Yiddish Stage, Volume 2
Sholom Secunda, Alexander Olshanetsky and Other Songwriters of Their Circle
(香港・ナクソスNaxos 8.559432)


【曲目】
1.素敵なあなたBay mir bistu sheyn (Secunda)
2.あなたを愛しすぎているIkh hob dikh tsufil lib (Olshanetsky)
3.あなたを一目見ただけでEyn kuk af dir (Olshanetsky)
4.過越しの祭りの女王A malke af peysekh (Gilrod)
5.幸福Glik (Olshanetsky)
6.コロンブス万歳!Lebn zol kolumbus (Perlmutter and Wohl)
7.善き家庭A gute heym (Olshanetsky)
8.それっていつのこと?今すぐ言ってNu, zog mir shoyn ven (Olshanetsky)
9.ユダヤの歌Dos yidishe lid (Secunda)
10.あなたといっしょならMit dir in eynem (Trilling)
11.私のユダヤの少女Mayn yidishe meydle (Secunda)
12.スルツクSlutsk (Wohl)
13.ヴェルヴェットとシルクSamet un zayd (Wohl)
14.シュトルーデルを持ったフドルHudl mitn shtrudl (Unknown)
15.木の下でUnter beymer (Olshanetsky)
16.恋をしたんだIkh bin farlibt (Olshanetsky)
17.クレズマーよ、フィドルを弾いておくれSkrip klezmerl, skripe (Secunda)


【ミュージシャン】
●ウィーン室内管弦楽団Vienna Chamber Orchestra
バルセロナ交響楽団&カタロニア国立管弦楽団
Barcelona Symphony/National Orchestra of Catalonia
●エリ・ヤッフェElli Jaffe(指揮)
●ロバート・アベルソンRobert Abelson,(baritone)
●ブルース・アドラーBruce Adler(baritone)
●ロバート・ブロックRobert Bloch(tenor)
ジョアンヌ・ボーツJoanne Borts(mezzo-soprano)
●エミー・ゴールドステインAmy Goldstein(soprano)
●デヴィッド・クラカウアーDavid Krakauer(clarinet)
●ベンジョン・ミラーCantor Benzion Miller(tenor)
●サイモン・スピロSimon Spiro(tenor)

アメリカのクラシック音楽シリーズ


このCDは、アメリカの文化財団、
ミルケン・アーカイヴMilken Archiveが
ナクソスを販売元としてリリースしている
アメリカン・ジューイッシュ・ミュージックAmerican Jewish Music
シリーズの1枚です。


ナクソスは、世界最大の廉価版専門クラシックレーベルです。


その中のシリーズ、アメリカン・クラシックスは、
バーバーBarberからフェルドマンFeldman、
グラスGlassまでリリースしている、
意欲的なシリーズです。


アメリカン・ジューイッシュ・ミュージックは、
そのアメリカン・クラシックスの中の
シリーズ内シリーズです。


アメリカのクラシック音楽の中でも、
ユダヤ系の作曲家にスポットを当てたシリーズなのです。


北米大陸におけるユダヤ系移民の過去350年間の音楽を
発掘していこうという、たいへん意欲的なプロジェクトです。

北米ユダヤ人のクラシック音楽


ミルケン・アーカイヴは、合衆国の資産家、
ローウェル・ミルケンLowell Milkenによって
1990年に設立されました。


北米ユダヤ人の音楽文化を後世に遺すための、
多彩な活動を行っています。


ミルケン・アーカイヴでは、
このナクソスのシリーズだけで、
すでに50枚近くのCDをリリースしています。


アメリカン・ジューイッシュ・ミュージックシリーズは、
クルト・ヴァイルKurt Weilや
レナード・バーンスタインLeonard Bernstein
といった有名どころはもちろん、
デイヴ・ブルーベックDave Brubeckといった
ジャズミュージシャンや、多くのマイナー作曲家も
カタログに加えているところがたいへん魅力的です。


演奏家としては指揮者のネヴィル・マリナーNeville Marinerや
ウィーン少年合唱団Vienna Boys Choir、さらには
ジュリアード弦楽四重奏団Juilliard String Quartet
まで雇っています。


ユダヤアメリカ音楽の隠れた名曲を、
すぐれた演奏と録音で世に送り出していこうという、
強靱な意志を感じます。


ミルケンアーカイヴのサイトはこちらです。
http://www.milkenarchive.org/


ページを閲覧していくと、
そのたびにCD音源のさわりが流れるので、
いやでも興味がかき立てられます。


エキゾチックな中東ふうのメロディと、
西洋のハーモニーが組み合わされた楽曲の数々は、
音楽好きの心をわしづかみにするはずです。


ぜひ一度、このサイトを訪れてみてください。

イスラエルの味方?


ちなみに、このシリーズの中には
「In Celebration of Israel」
なんていうのもあって、ちょっとヤバい感じです。
つまり、1947年のイスラエル建国を祝う、当時の
音楽作品を集めたCDです。


In Celebration of Israel(Naxos8.559461)


ナクソスの膨大なカタログの中で、
これほど政治的色彩の濃いCDはほかにないでしょう。


ご存じのように、イスラエル建国は、
60年近く経ったいまも、アラブからは
ほぼ認められていません。


こんなCDを出したら、親イスラエルと見なされるので、
ナクソスは今後「アラブ音楽シリーズ」みたいなものを
出すことができないのではないでしょうか。


ミルケン・アーカイヴはユダヤ系の財団なので、
イスラエルを支持しているのでしょう。


「世界のナクソス」をして、
こんなCDをリリースせしめるというところに、
ミルケン・アーカイヴの力(財力)の大きさを感じます。


どうでもいいことですが、
この「アメリカン・ジューイッシュ・ミュージック」
シリーズに関して、日本語で記された文章としては、
ウェブ上では、ぼくがいま記しているのが、
もっとも詳細なものになります*4

北米ユダヤのポピュラーソング


さて、今回ご紹介するCDは、
合衆国に渡ってきたユダヤの民が生んだポピュラー名曲集です。
ニューヨークのイディッシュシアターから生まれた
名曲の数々を収めたCDです。


ミルケン・アーカイヴでは、
いわゆるクラシック音楽のほかに、
シナゴーグユダヤ教の教会)での
儀式の音楽や、こうした世俗音楽もリリースしています。


この多彩さが、アメリカン・ジューイッシュ・ミュージック
シリーズの魅力となっています。

ニューヨークのユダヤ


ここでちょっと歴史の勉強をしてみましょう。


北米大陸には、合衆国成立の前から、
欧州から数多くのユダヤ人が入植してきました。


17世紀から19世紀の中盤までは、オランダ、ついでドイツなど、
西〜中央ヨーロッパからのユダヤ移民が多かったのですが、
1880年以降、(ロシアにおけるポグロムpogromの影響で)
ロシア、ポーランドなど東欧からの貧しい移民が圧倒的に増えます。


彼らの多くは、ニューヨーク、シカゴなど、
東海岸の大都市に住むようになります。


ニューヨークでは、マンハッタン島の
ローワー・イーストサイドLower Eastsideにある
当時の貧民街に多くの東欧ユダヤ人(アシュケナージム)が
集まっていました。


その街で生まれたのが、アシュケナージたちによる、
自分たちのための娯楽でした。


20世紀初頭、ユダヤ系の移民たちのミュージカルが、
盛んに作られました。


彼ら自身のミュージカルは、いくつかの劇場があった場所から
セカンド・アヴェニューSecond Avenueと呼ばれました。


舞台の上の夢物語に自らの運命を重ね合わせ、
移民たちはひととき泣き、笑い、
自らの暗い運命を忘れようとしたのでした。


このCDに収められているのは、
そのセカンド・アヴェニューで生まれた
名曲の数々です。


(以下、後編につづく→id:putchees:20060810)

*1:日本に伝わったのは、ひょっとすると1945年以降だったかもしれません。

*2:イディッシュ語については後述します。

*3:その姓からわかるように、彼はユダヤ系でした。

*4:2006年8月現在。