世界史上最大のヒットソング「素敵なあなた」を聴け！（後編）
イディッシュ語とは？
さて、もうひとつ歴史の勉強をしておきましょう。
そうした東欧ユダヤ人、
つまりアシュケナージムAshkenazimが
話していたのがイディッシュ語Yiddishという言語でした。
イディッシュ語は、語彙の大半がドイツ語で、
それにヘブライ語Hebrewの語彙や文法が混じった
ハイブリッドな言語です。
イディッシュ語は、世界各地で生まれた
ユダヤ語Jewish languagesのひとつです。
西暦70年以降のディアスポラDiasporaのあと
世界中に散ったユダヤ人たちが、
自らの言語（古典ヘブライ語）と移住先の言語を
フュージョンして生まれたのがユダヤ語です。
たとえばスペインのユダヤ人は、スペイン語に近い
ラディノ語Ladinoを作りましたし、アラビア語地域に住んだ
ユダヤ人は、アラビア語との間にモグラビット語を生み出しました。
それらのユダヤ語のなかでも話者が圧倒的に多いのが、
東欧ユダヤ人のイディッシュ語でした。
1930年代には、世界全体で
1000万人以上の話者がいたと言われています。
ところが現在は、約300万人にまで減ってしまったそうです。
これほど話者が激減した最大の原因は、
言うまでもなくナチスの蛮行です*1。
第二次世界大戦の前には、
各国でイディッシュ語新聞が発行され、
多数のイディッシュ語文学が生まれていました。
今回紹介するCDに収められている歌も、合衆国における
イディッシュ語文化の精華のひとつなのです。
エキゾチックでノスタルジックな歌
さあ、ようやくCDの紹介です。
白眉はもちろん「素敵なあなた」ですが、
そのほかのメロディも、たいへん魅力的です。
中東を思い起こさせるエキゾチックな節回しと、
マイナーキーの憂愁ただようメロディは、
ユニークな魅力があります。
20世紀前半のニューヨークの外れの舞台で
歌われたメロディというだけで、なにやら
ノスタルジックな気分をかき立てられます。
気取らない庶民の娯楽の中から生まれた歌ということで、
たいへん親しみやすい内容です。
いちおうクラシックのレーベルから出ているCDですが、
誰でも楽しめる音楽と思います。
エディット・ピアフや美空ひばりでも聴くつもりで
試してみてください。
「素敵なあなた」の作曲者
「素敵なあなた」を作曲したのは、
ショロム・セクンダ（1894-1974）という作曲家でした。
ショロム・セクンダ
彼はウクライナに生まれ、
1907年に合衆国へ渡ってきました。
少年のころから歌唱にすぐれたセクンダは、
ニューヨークで合唱団の一員として働くかたわら、
音楽学校（現在のジュリアード音楽院）に通って
作曲の腕を磨きます。
彼はやがて、セカンド・アヴェニューで
ミュージカルの仕事を手がけるようになります。
今回の冒頭に掲げた写真は、1938年のセクンダです。
劇場のオーケストラピットでピアノを弾いています。
ミュージカル「I Would If I Could」（“できることならそうしたい”）で、
「素敵なあなた」が初演されたのは1932年でした。
30ドルで売られた権利
この歌は、聴衆の間に大反響を巻き起こしたのですが、
セクンダ自身は、この歌がユダヤ人以外に受け入れられるとは
予想もしていなかったようです。
そのため、彼はわずか30ドルで、
歌の権利を売り渡してしまうのです。
実際、彼は同じ時期、30ドルで
無数の歌の権利を売り渡していたのでした。
ところが、アンドリュー・シスターズが歌った
英語版は、たちまち空前の大ヒットとなります。
セクンダが作ったのは、
ユダヤ人どころか、全世界の人の心に訴える名曲だったのです。
レコード会社は、この歌ひとつで、
総額300万ドルを稼いだと言われています*2。
こうしてセクンダが得られるはずだった莫大なロイヤリティ収入は、
みすみす他人のものになってしまいました。
作曲者と無関係な、この成功を気に病んで、
彼の母親は、狂乱のあまり拒食症になってしまいます。
しかし、契約は正当なもので、
セクンダは「素敵なあなた」の権利を取り戻すことは
できなかったのでした。
セクンダと作詞者のジェイコブスが、ようやく
自分の権利を取り戻したのは1961年のことでした。
セクンダは死ぬまで、その権利を保持しました。
彼が「素敵なあなた」の権利を手放していた間に
（本来ならば）得ることができたはずの利益は35万ドルとも言われましたが、
彼自身は恬淡としていました。
晩年のセクンダは、クラシック指向を強めていき、
歌曲やカンタータ、交響詩、弦楽四重奏曲などを作っていました。
セクンダ自身は、自分はシリアスな音楽の創作に
情熱を燃やしているから、失った金など惜しくもないと語っていました。
セクンダは、そうしたシリアスな芸術音楽の作曲家として
後世に名を残したいと考えていたようです。
しかし、世間の人々にとっては、
彼は永遠に「素敵なあなた」の作曲家なのです。
運命とは実に不思議なものです。
オリジナルの編曲で収録
ミルケン・アーカイヴは、驚くべき執念深さで、
失われたオリジナルのオーケストレーションを復活させ、
1932年にセカンド・アヴェニューで鳴ったのとほぼ同じ音楽を
再現して見せたのでした。
このCDに聞かれるのは、70年ぶりによみがえった、
もっともオリジナルに近い「素敵なあなた」です。
これを聞けば、オリジナル版のメロディが、すでに、
あまりに魅惑的であったことがわかります。
セクンダという作曲家の卓抜した才能、
そして彼が先祖から受け継いできたユダヤの音楽的伝統の
すばらしさを再認識することができます。
ニューヨークの貧民窟で生まれた、世紀の名曲を
みなさんにぜひ一度聴いていただきたいと思います。
ほかの歌も魅力的！
このCDに収められた歌は、それぞれ、
「素敵なあなた」と同じように、
セカンド・アヴェニューで生まれ、
ユダヤ系移民によって愛された名曲の数々です。
そして「素敵なあなた」と同じように、
ミルケン・アーカイヴの入念な復刻作業によって
奇跡的によみがえったオーケストレーションで
録音されています。
それぞれの演奏、歌唱も高いレベルです。
聴かずにすませるわけにはいきません。
また、
「ユダヤ人の作曲家による舞台の歌曲集
Great Songs of the Yiddish Stage」には、
第１弾として「エルスタインと仲間の作曲家たち
Abraham Ellstein & Other Songwriters of His Circle」
というCDも出ています。
Great Songs of the Yiddish Stage,Volume1(naxos8.559405)
そちらも魅力的な内容ですから、
ぜひ聴いてみてください。
とにかく、歴史的にも音楽的にも
貴重ですばらしい内容のCDです*3。
すべての音楽ファンにおすすめしたいと思います。
「素敵なあなた」オリジナルの訳詞
最後に「素敵なあなた」のオリジナルの歌詞を、
ライナーの英語訳をもとに、
日本語にして掲載しておきましょう。
「素敵なあなたBay Mir Bistu Sheyn」 作曲：ショロム・セクンダSholom Secunda 作詞：ジェイコブ・ジェイコブズJacob Jacobs （訳詞：プッチーケイイチ） もしあなたがタタール人の肌の色でも もしあなたが猫の目をしていても もしあなたがすこしびっこでも もしあなたが木の義足をつけていても そんなことわたしにはどうだっていい もしあなたが少し間抜けでも あるいは完全にばかだったとしても もしあなたが野卑なインディアンでも もしあなたがあか抜けないガリシアのユダヤ人でも そんなことわたしにはどうだっていい それはどうしてなのかとあなたが訊くなら よろしい、わたしはこう答えましょう なぜってわたしの目にあなたは美しい あなたはわたしのよろこび あなたはわたしの真実 あなたはとてもすばらしい わたしにとって特別な人 あなたはわたしにはどんなお金より高価だ たくさんの女がわたしをほしがるけれど わたしが選んだのはあなたただひとり なぜってわたしの目にあなたは美しいから
歌詞はいささか陳腐ですが、
ひとたび聴けば忘れない、永遠のメロディです。
みなさんも一度でいいから、
この名曲を聴いてみてください。
そうすればたちまち魅了されてしまうに違いありません。
そして「素敵なあなた」を口ずさみながら、
この歌の作者と、背景となった時代に思いを馳せてみてください。
ただもちろん、こんな古い音楽を聴いていても、
女の子にはぜったいにもてません。
（この稿完結）
【参考資料】（CDのライナーを除く）
※上田和夫「ユダヤ人」（講談社現代新書0834）
※ミルケン・アーカイヴウェブサイトhttp://www.milkenarchive.org/
※ウィキペディア英語版http://en.wikipedia.org/wiki/
※平凡社世界大百科事典
