伊福部昭の交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」を聴け!(前編)

putchees2005-10-24


ピクサースタジオジブリ


2005年現在、世界最高の
アニメーションスタジオは、間違いなく、
アメリカのピクサーPixar Animation Studiosと
日本のスタジオジブリでしょう。


前者は「トイ・ストーリーTOY STORY」(1995)で
名を上げた天才・ジョン・ラセターJohn A. Lasseterと、
したたかな経営者のスティーブ・ジョブズSteve Jobs*1
率いています。


後者は、いまや世界の映画ファンで知らない人はいなくなった
監督の宮崎駿(みやざき・はやお)と、徳間書店出身の経営者・
鈴木敏夫(すずき・としお)が率いています。


ちなみに、ジョン・ラセターは1980年代初頭に
ルパン三世 カリオストロの城」(1979)を観て以来、
宮崎駿を師と仰いでいます。彼がたびたび、
小金井市にあるスタジオジブリを訪れているのは有名な話です*2

ディズニーと東映動画


では半世紀前にはどうだったでしょう。
1955年の時点で世界最高のアニメーションスタジオは、
間違いなくディズニーWalt Disney Productionsでした。


アニメーションスタジオとしてのディズニーの栄光は
1940年代に極まりましたが、50年代にも
不思議の国のアリスAlice in Wonderland(1951)
ピーター・パンPeter Pan(1953年)
眠れる森の美女Sleeping Beauty(1959年)などを製作し、
劇場に無数の観客を集めていました。


そして1966年のウォルト・ディズニーWalt Disneyの死まで、
ディズニー作品の権威には絶大なものがありました。


合衆国をはじめ、世界の数多くのアニメーションスタジオは、
ディズニーを目指して切磋琢磨してたのです*3


ちょうどそのころ、日本では、
東映動画*4が産声を上げようとしていました。
東映の伝説的な経営者・大川博は、
子供向けのコンテンツとしてアニメーションに目をつけました。
その時期、コマーシャル用のアニメーション需要が増えており、
彼はこの分野が大きな産業になる可能性をいち早く認めていたのです。

日本独自のアニメーション


日本には20世紀のごく初期から独自のアニメーションの伝統があり、
ディズニーなどの外国作品の影響を受けながら成長してきました。
そして第二次世界大戦中には「桃太郎の海鷲」(1943 演出:瀬尾光世
「桃太郎 海の神兵」(1945・同)という長編アニメーションを
作り出すほどになりました*5


敗戦後、日本のアニメーションは再出発することになります。
しかし、産業としてはまだまったく体をなしていませんでした。


その中で最も大きなスタジオだったのが、大正期から
アニメーションを制作してきたベテランの
山本早苗(やまもと・さなえ)こと山本善次郎が主宰する
日動映画でした。

東映社長の檄


大川博は経営不振だった日動映画を買収すると、
1956年に東映動画を設立します。そして同時に新たな人材を招き入れ、
本格的にアニメーションの製作に取りかかります。
その劇場用の第一作は「白蛇伝」(1958)でした
日本初の、カラーによる本格的な劇場用長編アニメーションでした。


ディズニーなど、北米のアニメーションとはあきらかに肌合いの違う
東洋的でつややかな画面と、なめらかな絵の動きは、
高度な完成度を誇っていました。


この「白蛇伝」を劇場で観た、
当時高校3年生の宮崎駿は大きな衝撃を受け、
学習院大学卒業後に東映動画に入社することになります。


もちろん、当時の東映動画の作品はフルアニメーションです。
日本製アニメーションの「安かろう悪かろう」の象徴となる、
動きを省略した「リミテッドアニメーション」は、ここではまだ
採用されていません*6


大川博は「ディズニーに追いつけ」と、しきりに檄を飛ばしていたといいます。
当時のスタッフの多くが、それを夢物語と考えていましたが、
半世紀後、この東映動画から巣立ったスタッフが、実際にディズニーの
作品よりも高い評価を得ることになります*7

東映動画・成熟期の傑作


東映動画は、一作ごとに経験とノウハウを蓄積し、
高いクオリティの作品を世に送り出ししていきます。


そのうちの1本「わんぱく王子の大蛇退治
(わんぱくおうじのおろちたいじ)は1963年、
東映動画6本目の劇場用長編アニメーションとして製作されました。


日本神話に材を取り、スサノオ(素盞嗚尊)を主人公とする、
東洋的な冒険ファンタジーでした。


監督は前々作「安寿と厨子王丸」(1961)で演出デビューした
芹川有吾(せりかわ・ゆうご)、動画監修は山本早苗でした。

そうそうたる制作スタッフ


そのほかのスタッフには、原画監督(作画監督)に
長靴をはいた猫」(1969)「フランダースの犬」(1975)
で知られる日本のアニメーションの偉人・森康二森やすじ)、


演出助手には、後年東映動画
太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968)を監督し、
退社した後は「赤毛のアン」(1979)「火垂るの墓」(1988)
などを手がけることになる巨匠・高畑勲(たかはた・いさお)、


アニメーションの要となる原画マンの中には、
ルパン三世」(1971)「未来少年コナン」(1978)
ルパン三世 カリオストロの城」(1979)の作画監督をつとめ、
宮崎駿の右腕となる天才的な職人・大塚康生(おおつか・やすお)、


のちに「ドラえもん」(1979)「クレヨンしんちゃん」(1992)の
シンエイ動画を興す楠部大吉郎(くすべ・だいきちろう)、


そして動画マンには、「パンダコパンダ」(1972)の作画監督
アルプスの少女ハイジ」(1974)「母をたずねて三千里」(1976)
のキャラクターデザインで知られる小田部羊一(こたべ・よういち)、


後年、同じ東映動画で「キューティーハニー」(1974)
ゲッターロボ」(1974)などのプロデューサーをつとめる
勝田稔男(かつた・としお)、


さらには、のちに漫画「赤色エレジー」(1970)で名を馳せる異色の才人・
林静一(はやし・せいいち)の名がありました。


すでに成熟期を迎えた東映動画には、
こうした優秀なスタッフが多数集まっていたのです。
「わんぱく王子」におけるアニメーションの質は極めて高く、
ことに大塚康夫が原画を担当した、全編のクライマックスとなる
ヤマタノオロチスサノオの格闘シーンは、
とても実写live actionでは実現できないなめらかさと
ダイナミズムに溢れています。


また、色彩、画面設計、キャラクターデザインに至るまで、
日本的な美意識が活かされており、美術的な面でも、
たいへん洗練された映像でした*8


ここに、日本独自のアニメーションのスタイルが
完成したと言っていいでしょう。
子供向けという枠を超えた娯楽作品であり、
間違いなく、日本初期のアニメーションを代表する傑作のひとつです。

音楽劇の一面も


この映画では、音楽がたいへん大きな役割を果たしています。
タイトルバックで流れる勇壮なテーマ曲から、
天の岩戸の前で舞うアメノウズメの異国的な舞踏曲、
夜のオス国での神秘的な音響、そして八岐大蛇との決戦シーンの
轟然たる響き。どれも、一度聴けば耳を離れません。
アニメーションの鮮烈な映像と、分かちがたく印象づけられます。


これらの音楽を担当したのが、
作曲家の伊福部昭(いふくべ・あきら)でした。


伊福部昭は1914年北海道生まれ。20代前半から国際的な名声を得て、
作曲家、教育者として活躍。現在も現役で作品を作っています。
なお、一般には東宝の怪獣映画「ゴジラ」の作曲家として知られています*9


伊福部昭は1947年以降、数多くの映画音楽を担当してきましたが、
「わんぱく王子」は、そんな伊福部の担当した
唯一のアニメーション作品です*10


伊福部昭は、全編85分のドラマのうち、なんと70分以上に音楽をつけ、
ひとつひとつの効果音にいたるまで、すべて音楽的に処理しています。


圧倒的な音楽的密度を誇る映像作品だったのです。

冒険ファンタジーの音楽


ちなみにそれまでの東映動画作品で音楽を担当したのは
船村徹服部良一富田勲といった人たちでした。


この映画ではなぜ、伊福部昭に依頼されたのでしょう。


この映画は、「古事記」「日本書紀」に描かれた
日本神話をモチーフにしており、登場するのは、
イザナギイザナミ、アマテラスやスサノオなど神話の神々です。


伊福部昭は1959年に東宝で巨匠・稲垣浩(いながき・ひろし)が
日本神話に題材を求めた映画「日本誕生」(主演は三船敏郎)の
音楽を担当しており、似たような題材ということでの
依頼だったのかもしれません。


伊福部昭は古代的でスケールの大きな音楽を作る作家であり、
こうした冒険ファンタジーにはたいへん適任でした。


しかも、伊福部昭は日本神話の神々と浅からぬ縁がありました。

神々の末裔として


彼自身は開拓時代の北海道出身ですが、
実は伊福部家は神話時代から続く因幡の神官の家系であり、
いまも鳥取県には、伊福部の姓を持つ神官が大勢います。


伊福部家の家系をさかのぼると、出雲の国譲り神話で知られる
オオクニヌシ大国主)やその父・スサノオにまでたどりつきます。


この物語の舞台はイズモの国で、主人公スサノオは、
イズモのクシナダヒメを守るためにヤマタノオロチと戦うのです。


この映画の音楽を担当するには、
彼より他に適任の人材はいないと思えます*11


そして実際、伊福部昭はみごとにその仕事をやりおおせたのです。

ディズニーの「ファンタジア」


伊福部昭第二次世界大戦中に、東京で
ディズニーの「ファンタジアFantasia」(1940)を観ています。
日本軍が占領地のフィリピンで奪ってきたアメリカ映画のフィルムを、
文部省が関係者だけを呼んで極秘のうちに上映したのです。


「ファンタジア」は、絶頂期のディズニーが作り上げた、
アニメーション史上の最高傑作と言える音楽劇でした*12


カラーで描かれる目くるめく映像美に、
伊福部昭はすっかり圧倒されます*13
「ファンタジア」の中には、伊福部昭の大好きな、
ストラヴィンスキーIgor Stravinsky
春の祭典Le Sacre du Printemps」も使用されていました。


伊福部昭はひそかに、「わんぱく王子の大蛇退治」で、
「ファンタジア」のように見事な音楽劇を自分の手で
手がけてやろうと思ったのではないでしょうか。

映画音楽をコンサートピースに


こうして作られたアニメーション映画のための音楽が、
公開から40年後の2003年に、作曲者の手で演奏会用の組曲として
生まれ変わりました。


今回紹介するのは、その組曲が収められたCDです。
(前置きがえらい長くてスミマセン)


いったい、どんな音楽に仕上がっているのでしょうか。


(以下、後編につづく→id:putchees:20051028)

*1:アップルApple Computerの経営者と同じ人物。ジョブズは1986年、ピクサーの前身であるルーカスフィルムのアニメーション部門を、安値で買い取ったのです。

*2:ちなみに2005年現在、作品の芸術的な評価はジブリのほうが上かもしれませんが、娯楽映画としての質は、ピクサーのほうが上まわっています。10年後、両者のいずれが高い尊敬を集めているでしょうか。

*3:ちなみにジョン・ラセターは、(ずっと後の話ですが)ディズニーのスタジオ出身です。

*4:現在は東映アニメーションという社名。

*5:もっとも、同時期のディズニー作品とは到底くらべものにならない作品だったようです。これが当時の日本の映像産業の実力というわけでしょう。

*6:テレビシリーズのために量産体制を強いられたスタジオが、予算と手間の軽減のために、映像としての質が低いアニメーションを濫造するようになるのは、1960年代中葉からのことです。なおこれと同じ現象が、1950年代初頭の合衆国で起きていました。

*7:60年代以降、ディズニーの映像制作会社としての実力が低下したことを見逃してはなりませんが。

*8:この作品で初めて、アニメーション全体の「絵」を統括する「作画監督」という役割が生まれました。

*9:伊福部昭については、過去のレビューで何度か紹介しています→id:putchees:20050612 id:putchees:20050611 id:putchees:20050522 id:putchees:20050513 id:putchees:20041224 id:putchees:20041202

*10:伊福部昭のフィルモグラフィには、300本近くの映画が含まれています。

*11:しかも、監督の芹川有吾は、谷口千吉の「銀嶺の果て」(1947)を観て以来、伊福部昭の映画音楽のファンでした。「銀嶺の果て」は、伊福部昭の映画音楽デビュー作でした。

*12:「ファンタジア」の音響は、なんとステレオでした。

*13:ちなみに映画監督の小津安二郎(おづ・やすじろう)も、1943年に占領地のシンガポールで「風と共に去りぬGone with the Wind」(1939)と「ファンタジア」を観ています。そして「こんな映画を作る国には勝てない」と思ったそうです。