鬼才・芥川也寸志のやくざなチェロ協奏曲に酔う!(その1)
クラシック嫌いのためのレビュー
今回はクラシック(現代音楽)の
コンサートレポートです。
クラシックというと、
選ばれた人が聴く音楽という
イメージがあるようです。
金持ちとか、インテリとか。
しかし、実際にはそんなことはありません。
なにしろぼくが聴いてますから。
ぼくは沢田研二や松田聖子といった昔の歌謡曲を
浴びるほど聴いて育った、ごくフツウの日本人です。
風呂場で鼻歌を歌うと、
自然と演歌か民謡の音階になってしまいます。
ベートーベンだとかシューベルトだとか、
学校で教わったような、いわゆるクラシック音楽*1を聴いてると、
退屈で眠くなる人間です。
だいたい、学校で習うようなクラシック音楽には
刺激がないではありませんか。
そんなの聴くくらいなら、
石川さゆりの「天城越え」でも聴いてるほうが
よっぽど面白いと思います。
しかし、クラシックの中にも、
ぼくみたいなフツウの人が聴いて退屈しないような、
あっと驚く刺激的な名曲がたくさんあるのです。
ロックやジャズをはるかに超えるような、
「ク〜ッたまらん」という刺激的な音楽が大量にあるのです*2。
それを知って、ぼくはクラシックを聴くようになりました。
20代になってからです。
ですからこのレビューは、
フツウの人にこそ読んでいただきたいのです。
クラシックは苦手、という人にこそ読んでいただきたいのです。
ぼくも昔は大のクラシック嫌いでしたから。
決して、退屈な曲は紹介しません。
よかったら下までお読み下さい。
このところコンサートレポートばかりで、
なかなかタイトル通りにCDレビューを書くことができませんが、
お許しください。
春先まで、注目すべきコンサートが続きますので、
しばらくコンサートレポートが続く予定です。
芥川龍之介の三男は作曲家だった
今回聴いてきたのは、作曲家・
芥川也寸志(あくたがわ・やすし1925-1989)の
オーケストラ作品です。
芥川也寸志は、名前から想像できるように、大正期の
小説家・芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ1892-1927)の
息子です。
芥川龍之介というと、みなさん、あの有名な
流し目のポートレートが頭に浮かぶのではありませんか。
いかにも昔の深刻な芸術家というイメージですね。
ところが、息子の芥川也寸志は、
父親が晩年深刻な小説を書いたように、
人生に悩んで、深刻な音楽を作ったりはしませんでした*3。
彼はきわめて痛快でヴァイタリティにあふれる音楽を
バリバリと書きまくりました。
日本人離れした、大きなスケールの音楽です。
彼は戦後の日本に現れた、芸術界のスターでした。
彼の作品は、日本はもとより、合衆国やロシア
(当時のソビエト連邦)でしばしば演奏されました。
しかも芥川也寸志は外向的・社交的で、
俳優のようにハンサムで、知性的で、ダンディでした*4。
どんな曲を書いたか、少しは興味が湧きませんか?
それから、今回のオーケストラを指揮したのは、
いまひそかに話題の指揮者・湯浅卓雄(ゆあさ・たくお)でした。
彼はナクソスNaxosレーベルと専属契約を結び、
「日本作曲家選輯」のほか、シェーンベルクSchoenberg、
オネゲルHoneggerなどの作品集で賞賛を集めています*5。
すでにヨーロッパと関西では名声を博していながら、
なぜか東京では公演の機会がなかった名匠の
東京デビューとも言えるコンサートだったのです。
ちょっと面白そうな気がしませんか?
もしよかったら、下のほうまで読んでみてください。
今回はコンサート報告です
【今回のコンサート】
東京都交響楽団 第621回 定期演奏会(Aシリーズ)
日本管弦楽の名曲とその源流2(プロデュース:別宮貞雄)
【日時・会場】
1月24日(火)19:00〜21:00
東京文化会館大ホール(上野)
【ミュージシャン】
指揮:湯浅卓雄
チェロ:山崎伸子(やまざき・のぶこ)
管弦楽:東京都交響楽団
【曲目】
●芥川也寸志:弦楽のための三楽章(1953)
●芥川也寸志:チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート(1969)
●プロコフィエフ:交響曲第6番 変ホ短調 op.111
なんて地味なプログラムなんだ!
きょうのコンサートは、
東京都交響楽団(都響)の定期演奏会でした。
芥川也寸志のオーケストラ曲が2曲、
それにロシア・ソビエトの作曲家、
プロコフィエフSergei Prokofievの
交響曲がひとつというプログラムです。
なんとも地味な曲目です。
だって、フツウの人はこんな曲はまず知らないでしょう。
今回のプログラムを選曲したのは、
作曲家の別宮貞雄(べっく・さだお1922-)でした。
芥川也寸志の初期と後期における代表作をひとつずつ取り上げ、
さらに芥川音楽の原点としてのプロコフィエフを取り上げるという、
明解な意志に沿った選曲というわけです。
芥川也寸志もプロコフィエフの交響曲も*6、
なかなか取り上げられる機会がありませんから、
こういう演奏会は貴重なのです。
地味なプログラムを意欲的に開く都響は、
ぼくのようなリスナーにとっては応援したいオーケストラです。
運命の出会い
まずは芥川也寸志についてご紹介しておきましょう。
幼くして父を亡くした芥川也寸志は、
父の遺したレコードを聴いて育ちます。
その中でも、ストラヴィンスキーStravinskyに
強く惹かれたそうです。
音楽を志すようになった芥川は、
第二次世界大戦中に東京音楽学校*7に入学します。
大戦中は橋本國彦(はしもと・くにひこ)に師事しますが、
日本の敗北とともに、その師は、
占領軍(米軍)の指示で、「戦争協力者」として、
学園を放逐されてしまいます*8。
旧東京音楽学校本館
教師がいなくなった音楽学校に、
新しい教師がやってきました。
その新任講師はまだ30歳そこそこで、
専門の音楽教育を受けたことのない
アマチュア同然の作曲家でした。
ハイティーンの学生たちと、さして年の違わない
若い教師だったのです。
聞けば、当時まだ外地と呼ばれていた北海道から
出てきたばかりというではありませんか。
そんな教師に、英才教育を受けてきた学生が集う
上野の音楽学校の講師がつとまるのでしょうか?
おそらく、不安と不審の面持ちで、
学生たちはその教員を迎えたことでしょう。
教室に現れたのは、長身で堂々とした体躯に、
彫りの深い顔立ちの凛々しい青年でした。
さらに蝶ネクタイを締めて、ダンディな雰囲気さえ漂わせていたのです。
彼は学生たちに向かって開口一番、こう宣言します。
「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」*9
そして、芸術家とはいかにあるべきかについて、
若き学生たちに情熱的に語ったといいます。
さらに、当時の音楽学校では講義に取り上げられることのなかった
プロコフィエフやストラヴィンスキー、
ショスタコーヴィチShostakovichの音楽を
称揚したのです。
たちまち教室の中に、新任講師の信奉者が誕生しました。
1946年9月のことです。
信奉者の中には、若き芥川也寸志、黛敏郎(まゆずみ・としろう)、
矢代秋雄(やしろ・あきお)といった、
戦後の作曲界のスターが多く含まれていました。
学生たちをたちまちにして魅了した
その新任講師こそ、伊福部昭(いふくべ・あきら)その人でした。
1948年の伊福部昭
開拓時代の北海道で生を受け、その北海道の山奥で
21歳のときに独学で作曲した最初のオーケストラ曲が、
いきなりパリ在住の著名な作曲家たちに認められてしまった、
日本作曲界の異端児でした*10。
伊福部昭の講義は、それまでの音楽学校の講義とは、
まったく違ったものであったようです。
学生たちの中でも、もっともこの教師から強い感化を受けたのが
芥川也寸志でした。
芥川也寸志は、何日目かの講義のあと、当時伊福部昭が住んでいた
日光まで押しかけ、伊福部邸に数日間泊まり込んで、音楽について
語り尽くしたそうです。
そして、若き芥川は日光からの帰途、それまでに書いた
自作の楽譜を泣きながら破り捨てたといいます。
彼の人生に決定的な影響を与えた出会いでした。
芥川也寸志の初期・中期・後期
こうして伊福部昭の薫陶を受けた芥川也寸志は、
師匠譲りのヴァイタリティあふれるオーケストラ曲を
次々に発表していきます。
中でも有名なのが、
伊福部昭とプロコフィエフを足して2で割ったような
「交響三章(トリニタ・シンフォニカ)」(1948)、
底抜けに痛快な「交響管絃楽のための音楽」(1950)、
そしてきょう演奏された
「弦楽のための三楽章(トリプティーク)」(1953)です。
彼はこれらの作品で、日本国内はもとより、
合衆国やソビエト連邦でも名前を知られるようになります。
やがて伊福部昭の影響を脱した芥川也寸志は、
次いで早坂文雄の作風に接近します*11。
この時期の代表作が「エローラ交響曲」(1957)です。
それまでの痛快で外向的な作風から、
重々しく内省的な作風に変わったのです。
しかし、いろいろ試して考えを改めたのか、
芥川也寸志は、60年代後半、ふたたび
伊福部流バイタリティ路線に戻ってきます。
そして89年に惜しまれて世を去るまで、
この路線を突っ走りました*12。
その時期の代表作のひとつが、きょう演奏された
「コンチェルト・オスティナート」(1969)でした。
きょう演奏された2曲は、いずれも芥川也寸志の代表作であり、
強烈な個性とバイタリティにあふれています。
こういう曲は、CDでは真価が伝わりません。
実演を聴けると思うと、わくわくします。
さて、どんな演奏だったでしょうか?
(以下、その2へつづく→id:putchees:20060214)
*1:18世紀末から19世紀末にかけてのヨーロッパ音楽のことです。
*2:「ク〜ッたまらん」というフレーズは、ジャズ評論家の中山康樹(なかやま・やすき)の発案です。
*3:もちろん、創作する上でのさまざまな葛藤はあったと思うのですが。
*4:ちなみに彼の兄の芥川比呂志(あくたがわ・ひろし)は、有名な舞台・映画俳優でした。
*5:日本作曲家選輯については、本レビューでは、過去に何度もご紹介しています。
*6:プロコフィエフの7つの交響曲で、日本のオーケストラが取り上げるのは、1番と5番くらいでしょう。
*8:橋本國彦については、過去の記事をごらん下さい→id:putchees:20051130 なお、橋本國彦は大戦中、海軍提督・山本五十六の死を悼むカンタータ「英霊讃歌」(1943)を書いたりしてました。日本帝国を代表する音楽学校の花形教授としては、そういう曲を書かざるを得なかったわけです。
*10:伊福部昭については、過去の記事をお読みください→id:putchees:20041202 id:putchees:20050513 id:putchees:20050522 id:putchees:20050611 id:putchees:20051024 id:putchees:20051217
*11:早坂文雄については、過去の記事をお読みください→id:putchees:20051214
*12:実際には、彼はテレビショーの司会や執筆、また社会的な活動のために多忙を極め、作曲のための時間はあまりなかったのですが。