珠玉の小品。スカルラッティのハープシコード曲を聴こう!
バロック音楽をご紹介
きょうは18世紀の作曲家の作品をご紹介します。
ぼくが、クラシックらしいクラシックの曲を
ご紹介するのは異例です。
もっとも、あまり有名な作曲家の作品ではありません。
地味ですが、心にしみる名曲です。
このサイトで取り上げるのにふさわしい音楽です。
ちょっとした趣向も用意しておりますので、
どうぞ下までお読みください。
今回はCD紹介です
【今回のCD】
「スカルラッティ:鍵盤ソナタ全集」
Scarlatti : The Keyboard Sonatas
(CD34枚組)
(Elato/Warner2564620922 ASIN:B0009MWAVQ)
お上品な楽器?
きょうご紹介するのはハープシコードの独奏曲です。
イタリア生まれの
ドメニコ・スカルラッティDomenico Scarlatti(1985-1757)
という作曲家が作った作品です。
ハープシコード(チェンバロ、あるいはクラヴサン)*1というと、
いかにもお上品で、貴族趣味の楽器という感じがします。
ぼくが普段聴いている、泥臭いフリージャズや
昭和の歌謡曲などとはまるで別次元です。
そんなわけで、ぼくはハープシコード曲を
自分と無縁なものだと思って敬遠してきました。
ところがある日、
試しにスカルラッティの曲集を買って聴いてみたら、
あらびっくり。
すばらしく美しい音楽ではありませんか。
バッハとも、モーツァルトやショパンとも違う、
暗さと明るさの共存する、不思議に現代的な音楽でした*2。
たちまち魅了されてしまいました。
ぼくは「いわゆるクラシック」が苦手なのですが、
それでもこれはいい音楽だと思いました。
したがって、クラシック嫌いの方にも
自信を持っておすすめできます。
予断なしでいちどお試しください。
バッハの同級生
スカルラッティはバッハJ.S.Bachと同い年の作曲家です。*3
スカルラッティのほうがバッハより少し長生きしましたが、
やはり同い年のヘンデルG.F.Handelなどとならんで、
バロック音楽の巨人のひとりといっていいでしょう。
スカルラッティの残した作品の大半は、
ハープシコードのための独奏ソナタです。
番号つきの作品が、555曲残されています*4。
555曲! なんて膨大な数でしょう。
よくもまあ、そんなにたくさんの曲を作ったものです。
スカルラッティは高名な作曲家の父・
アレッサンドロAlessandroの子として
ナポリに生まれ、音楽教育を受けます。
ドメニコもやがて作曲家となり、
イタリア国内でキャリアを積むのですが、
1720年ごろ、彼は突如リスボンへ渡ってしまいます。
ポルトガル王室のお姫様の教育係という役職を得たからです。
映画「アマデウス」を見るとわかりますが、
19世紀前半になるまで、ヨーロッパの作曲家が
たつきを得るには、王侯などのパトロンが必要でした。
詳しい事情は不明なのですが、
われらがスカルラッティは音楽の中心・イタリアから、
いきなりヨーロッパの西のはじっこへ移ってしまったのです。
でもって、彼は死ぬまでイベリア半島にとどまり、
教育係として、また宮廷音楽家として
ひとりでこつこつとハープシコードソナタを作り続けました*5。
日々の楽しみのための音楽
そういうわけで、ある時期以降の彼は、
同時代のバッハやクープランCouperinといった
鍵盤楽器の大家たちと交渉を持つことなく創作していました*6。
しかし、彼の作品は少しも時代遅れになりませんでした。
それどころか、いまでも輝きを失っていません。*7
貴族のためのサロン音楽という性格から、
どの曲にも上品さと最良のくつろぎが満ちています。
そして、それと矛盾するようですが、
常にある種のメランコリーが漂っています*8。
スカルラッティのソナタを耳にする者は、
すべてこのくつろぎと憂愁を感じることでしょう。
これこそがこの作曲家の魅力であるといえます。
いかにもゲージュツという感じの
重苦しさがないところがすばらしいのです。*9
555曲で演奏時間は34時間
さて、そのスカルラッティの膨大なソナタは、
彼の死後100年以上、ほとんど忘れ去られたままでした。
ようやく、ピアノ演奏会のプログラムに
取り上げられるようになったのは、
20世紀になってからのことです。
スカルラッティの555のソナタをひとりで録音するという
試みは、多くのハープシコード&ピアノ奏者の夢でしたが、
成功した人はいませんでした。
なにしろ、全部で34時間にも及ぶ、
とんでもない分量なのです*10。
スコット・ロスの全集
スコット・ロスは、夭逝の天才プレイヤーとして知られています。
(スコット・ロス 1951-1989)
彼は、1984年7月から翌85年の9月までの
わずか15か月で、555曲すべての
レコーディングをなし遂げてしまいました*11。
彼の残したスカルラッティのソナタ全集は、
クラシックの世界で不滅の輝きを放つ遺産と言われています。
しかし、日本円で5万円以上という値段から、一般の音楽ファンが
おいそれと手が出せる商品ではありませんでした。
ところが、近年クラシックCDの世界で進んでいる
価格破壊のおかげで、この全集が
2万円以下で手に入るようになりました。
そんなわけで、昨年ぼくも買ってしまいました。
スカルラッティファン、夢のボックスです。
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1071287
似たような曲ばかり
しかし、いざ通して聴いてみると、
さすがに555曲は飽きます。
なにしろ、CDが34枚です。
どれもこれも同じに聞こえてきました。
同工異曲とはこのことを言うのでしょう。
これがバッハなら、同じハープシコード曲でも、
それぞれにまったく違う趣向が凝らされていて、
全集を聴いていても飽きることはないのですが、
スカルラッティのソナタは、どれもほぼ同じ構造と趣向で、
立て続けに聴いていると、まったく区別ができなくなってきます。*12
いくら好きでも、これはたまりません。
毎日聴いていたら、頭がおかしくなりそうになってきました*13。
これだけ似たような曲をすべて録音した、
スコット・ロスはほんとうに偉いと、
本来とは別の意味で感心してしまいました*14。
そこで気がついたのですが、
この手の全集ものやCDボックスは、
続けて聴くものではないということです
こういうもののためにあるのが、アップル社の
iTunesとiPodです。
ほかの音楽CDとごちゃまぜにして、
ランダム再生で聴くといいのです。
そうするとあら不思議、
ときどきかかるスカルラッティのソナタを、
それぞれ新鮮に聴くことができるのです*15。
ああよかった。
これで発狂しないですみます。
ぼくのお気に入り19曲
ついでに、iTunesの「マイレート」機能で、
気に入った曲には「★」印をつけていきました*16。
そうしてできあがったのが、
ぼくのチョイスしたスカルラッティのベストソナタ集です。
ご紹介しましょう。
プッチーケイイチの選ぶスカルラッティのソナタ・ベスト 【★★★★】 K.9 Sonata in D minor, Allegro 【★★★】 K.87 Sonata in B minor K.159 Sonata in C major, Allegro K.474 Sonata in E flat major, Andante e cantabile 【★★】 K.1 Sonata in D minor, Allegro K.4 Sonata in G minor, Allegro K.11 Sonata in C minor K.27 Sonata in B minor, Allegro K.53 Sonata in D major, Presto K.58 Sonata in C minor, Fuga K.141 Sonata in D minor, Allegro K.212 Sonata in A major, Allegro molto K.298 Sonata in D major, Allegro K.319 Sonata in F sharp major, Allegro K.322 Sonata in A major, Allegro K.447 Sonata in F sharp minor, Allegro K.470 Sonata in G major, Allegro K.481 Sonata in F minor, Andante e cantabile (★ひとつは多数。よって省略)
これが、555曲の中からチョイスした、
ぼくだけの名曲集です*17。
全19曲で、約69分ですから、
CD一枚に収録するのにちょうどいい分量です*18。
この19曲こそ、ぼくが自信を持っておすすめする、
スカルラッティの珠玉の名曲たちです。
といっても、K.9やK.27、K.159あたりは、
誰もが認める名曲のようです
ちなみに、数あるスカルラッティ名曲集の
なかでとりわけ有名なのが、ロシア生まれのピアニスト、
ホロヴィッツVladimir Horowitzによるものですが*19、
ぼくのチョイスで、ホロヴィッツのアルバムと重なっているのは、
K.322とK.474、K.481の3曲です*20。
いちばん美しい曲
星の数を見ればわかりますが、
ぼくがもっとも愛するのはK.9です。
あらゆるピアノ曲(ハープシコード曲)の中で、
いちばん好きな作品のひとつです*21。
これほど典雅で、これほど切ない音楽を
ぼくはほかにあまり知りません。
ことに、最後の主題に戻ってくる瞬間は、
身悶えするほど美しい。
もう、たまらないです。
せめてこの1曲だけでも、
みなさんに聴いていただきたいものです。
お気に入りの1曲を探す楽しみ
正直言うと、フツウの音楽ファンは、
この34枚組のボックスを買う必要はないと思います。
同じレーベルで、
この全集からチョイスされた名曲集が出ていますから、
それを買えばじゅうぶんという気がします*22。
それで飽き足りない業の深い(?)人だけが、
この全集を買うべきでしょう。
そして、もし手に入れたなら、
34枚のCDを辛抱して順番に聴き通すよりは、
気まぐれに一枚取り出して聴いたり、
ぼくのように、iTunesのランダム再生を
利用したりするのがいいのではないでしょうか。
この全集の楽しみ方は、
555というほとんど無限の作品の中から、
お仕着せの「名曲集」ではなくて、
自分だけの名曲を探すことにあります。
それは、野の花の中から、
とびきり美しい一輪を探す楽しみに似ています。
実にぜいたくな楽しみではありませんか!
スカルラッティの音楽は
気取らない、リラックスした親密さが身上ですから、
どんな聴き方をしようと、その魅力が
損なわれるようなことはないはずです。
もしこの全集を手に入れたなら、
スカルラッティという名の、花咲き乱れる野を
気ままに散策してください。
スタンダードな名演
スコット・ロスの演奏は
ケレン味には欠けているかもしれませんが、
無駄な色づけのない、
スタンダードな演奏として完成されています。
あなたもぜひ一度、
ドメニコ・スカルラッティの鍵盤ソナタを
聴いてみてください*23。
そして、自分だけの名曲を探してみてください。
ただ、地味でマイナーな作曲家だし*24、
こんな膨大なCDボックスなんて聴いていたら、
女の子にはもてないですけどね。
(この稿完結)
※もしスカルラッティが好きな方からコメントをいただけるなら、
あなたのいちばんのお気に入りの番号を教えてくださいね。
*1:ハープシコードharpsichordというのは英語。チェンバロcembaloはイタリア語で、クラヴサンclavecinはフランス語。
*2:古さを感じさせない、現代人のBGMにぴったりの音楽ということです。
*4:20世紀後半になってからそれぞれの作品に通し番号をつけたのは、カークパトリックRalph Kirkpatrickというアメリカ生まれのハープシコード奏者でした。
*5:彼の仕えたお姫様が、途中でスペイン王妃になったために、スカルラッティもマドリッドに移りました。
*6:イタリアにいたころのドメニコ・スカルラッティは、ほかの作曲家との交流があり、ヘンデルと即興の腕前を争ったこともあるそうです。
*7:ぼくはよくわかりませんが、作曲の手法や演奏の技巧に関して、当時としては驚くようなテクニックが用いられているようです。
*8:ひょっとすると、故郷を遠く離れた者の感じる憂愁なのかもしれません。
*9:ちなみに、スカルラッティの作ったソナタは、19世紀のウィーンでベートーヴェンらの手によって完成された、厳密な形式としての「ソナタ」ではなくて、単に器楽曲といったような意味だったようです。
*10:大バッハのすべてのハープシコード曲と、すべてのオルガン曲を合わせたのと同じくらいの分量なのです。
*11:98回のレコーディングセッションで、8000ものテイクが残されたそうです。
*12:スコット・ロスは、単調さを避けるために複数のハープシコードを使い分けて多彩な音色を作っていますが、それでも残念ながら、やっぱり、単調です。それはスコット・ロスのせいではなくて、曲が多すぎるのです。
*13:もちろん、誇張です。
*14:スコット・ロスは、録音セッション中、飽きるどころか、楽しくて仕方がなかったそうです。そして、最後の曲を録音するとき、どうしようもなく寂しかったそうです。さすが、天才は違います。
*15:たとえば、iTunesに10000曲入っていれば、555曲のソナタのいずれかがかかる割合は、だいたい20回に1回ということになります。
*16:iTunesでは、それぞれの曲に★をゼロから5つまでつけて、お気に入り度を区別することができるのです。
*17:555曲を、ぼくのiTunesに入った全17000曲以上の中からランダム再生させるのに、1年以上かかりました(意味が伝わるでしょうか?)。そのため、ぼくはこの原稿を書くのを1年以上待ちました。
*18:でもって、CDに焼いて、誰かに聴かせたくなります。
*20:ちなみに、スコット・ロス自身のいちばんのお気に入りは、K.208だそうです。
*21:K.9は、多くのスカルラッティ名曲集の中に入っているはずです。
*23:ハープシコードではなく、現代のピアノで演奏された録音もたくさん出ています。
*24:スカルラッティのCDは、クラシック売り場の片隅の、古楽early musicコーナーにひっそりと置かれています。