ショスタコーヴィチの渋すぎるピアノ曲を聴け!

putchees2006-04-25


渋いクラシックのBGMその2


今回も、BGMになりそうな
クラシック音楽のCDをご紹介します。


今回は、ショスタコーヴィチのピアノ独奏曲です。


今年は、ショスタコヴィッチ生誕100年だそうですが、
彼の音楽こそ、もてない音楽の代表格です。
「20世紀最大の女にもてない作曲家」
傑作をご紹介しましょう。*1

今回はCD紹介です


【今回のCD】
ショスタコーヴィチ24の前奏曲とフーガ」
ナクソスNaxos 8.554745-46)


【曲目】
ショスタコーヴィチDmitry Shostakovich(1906-1975)
24の前奏曲とフーガ24 Preludes and Fugues, Op. 87


【ミュージシャン】
コンスタンティン・シチェルバコフ
Konstantin Scherbakov(ピアノ)

「もてない作曲家」の対策


今回ご紹介するCDには、
ただひとつの作品しか収められていません。
24の前奏曲とフーガ」です。


この曲は、旧ソ連最大の作曲家・
ドミトリイ・ショスタコーヴィチが1952年に発表したものです。


全48曲で構成された一大組曲です。


24種類の、すべての長調短調*2で、
それぞれ前奏曲とフーガが作られています。


つまり24×2で合計48曲というわけです。


大バッハJ.S.Bachの有名な「平均律クラヴィーア曲集
Well-Tempered Clavier or Preludes and Fugues」
にならって作られたと言われています。


ショスタコーヴィチのオーケストラ曲は、
15の交響曲に代表されるように、重厚長大のきわみです。
それらは、ほとんど滑稽なほど大げさです。


ところがこのピアノ独奏曲は、
まったく対照的です。


短小なピアノ曲が、
淡々と続いていきます。


大げさな抑揚も、
大向こうに受ける技巧も見受けられません。


ただ冷たく静かに響く音楽です。


前衛ではありませんし、
音量の変化も最小限ですから、
BGMに最適でしょう。


凍るように寒い夜のBGMにいいかもしれません。


しかし、この曲は決してただのムード音楽ではありません。


注意深く聴くと、静けさの中にこめられた
緊張感に、思わず鳥肌が立ちます。


このとぎすまされた空気は、
ほとんど殺気といっていいほどです。


あまりに心地よいので、
つい聞き流してしまいそうですが、
空恐ろしい音楽というほかありません。

冷たく透明なサウンド


それにしても、
この透明なサウンドはどうでしょう。


この音楽には、血の通った人間の
個性というものが感じられません。


音がきわめて抑制されていますから、
特定の感情があらわになることもありません。


作曲家がどのような思いを込めたのか、
まったく見通せないような音楽なのです。


あえて言うならば、ひたすら孤独で内省的な音楽です。
外へ向かって、共感を求めるような音楽ではないのです。
閉じた小宇宙とでもいうべきでしょうか。


創作は、作者の個性を表すものだというのが、
20世紀の民主主義教育を受けて育ったぼくたちの常識ですが、
この曲には、そのような常識は通用しないようです。

個性無用の社会で生まれた音楽


ショスタコービチについては、
詳しい人がたくさんいるので、
ぼくは説明しません。


ショスタコーヴィチ


ソビエトの抑圧的な政府のもとで、
生涯を作曲家としてすごした人でした。


ありあまる才能を、
政府の意に染むような音楽を作ることに
捧げざるを得なかった人です。


共産主義政権のもとでは、
個性というのはじゃまものでしかありませんでした。


政府のために役に立つようなものだけが
価値ある芸術だったのです。


したがって、ショスタコーヴィチは、
個性を感じさせないような音楽を作るすべを身につけました。


そうしないと、(冗談ではなく)命が危なかったからです。


ショスタコーヴィチは、自分を
きわめて隠微に表現するほかありませんでした。


それがピアノ独奏曲という形になったとき、
このような作品が生まれたようです。


彼の交響曲とはまるで対照的な、
静謐そのもののサウンドです。

個性なんてどうでもいい!?


遠くバッハの時代も、
作曲家は、音楽に自分の個性を
込めようとはしていませんでした。


バッハの音楽が、ときおり機械的だと
感じられるのはそのせいです。


作者の個性を表出するのが価値だという個性崇拝は、
19世紀以降の西欧で作られた神話にすぎません。


個性崇拝を掲げる現代の音楽
(音楽に限らずすべての芸術作品は)、
肥大化した作者の自我
押しつけるようなものばかりですが、
それらの作品がすぐれたものであるという
客観的な証拠は何もありません。


21世紀に生きるぼくたちは、
ラクタのような現代美術や、
騒音のような現代音楽に、辟易して
いるのではないでしょうか。


それらはすべて、
個性個性という呪文によって作られた、
畸形的な作品という気がします。


むしろ、そうした押しつけがましい個性などと
無縁な作品にこそ、美を感じることが
多いのではないでしょうか。


バッハの音楽は、まさにそうしたものです。
(ひょっとすると、モーツァルトの音楽もそうかもしれません)


バッハのすごさは、作者の個性などというものを
意識せずに作ったにもかかわらず、そのために
よりいっそう、作者の個性が際だつという逆説にあります。*3
ショスタコーヴィチのこの作品にも、それと同じような
すごみがあります。


作者の個性を徹底的に殺して、それでも抑えきれずに
にじみ出た個性が結晶化した音楽なのです。


もしもショスタコーヴィチが、ソビエト・ロシアではなく
西欧に生まれて、自分の好きなように
作曲をしていたら、このような作品は生まれなかったことでしょう。


運命とは、なんと不思議なものでしょう。


抑圧的な政治体制のもとで生まれた芸術作品が、
このような無類の輝きを放つことになったのです。

わずか2000円弱で買える!


この曲の録音の決定盤は、
初演者タチアナ・ニコライエワTatiana Nikolayeva
自身によるものだと言われています。


しかし、そのCDは輸入盤で7000円以上するので、
貧乏人には手が出ません。


ぼくは、ナクソスから低価格で出ている、
コンスタンティン・シチェルバコフの演奏を聴いています。
彼は1963年シベリア生まれで、来日経験もある
確かな技巧のピアニストだそうです。


CD二枚組で合計140分の、至高のピアノ音楽です。


これぞ最高のBGMにして、
もてないピアノ曲の最高峰のひとつです*4


ぜひいちど、聴いてみてください。
ショスタコーヴィチの音楽はよくわからないぼくですが、
この曲だけはためらいなく、すばらしいと断言できます。


ただ、こんな音楽を聴いても、
女の子にはぜったいにもてません。
繰り返しますが、もう、ぜったいにもてません。


(この稿完結)


(次回は古楽で、ヴィオラ・ダ・ガンバ独奏曲のCDをご紹介です)

*1:念のために記しておきますが、ショスタコーヴィチ自身が「女にもてない」のではなく、彼の音楽が「もてない」ということです。

*2:CメジャーとCマイナー、CシャープメジャーとCシャープマイナー、DメジャーとDマイナー、DシャープメジャーとDシャープマイナー……といった具合。

*3:個性でないとするなら、芸術においてなにが大切なのでしょう? ぼくは伊福部昭が言うように「伝統」だと思っています。

*4:20世紀におけるもうひとつの最高峰は、オリヴィエ・メシアンOlivier Messiaenの「幼児イエスに注ぐ20のまなざしVingt regards sur l'Enfant-Jesus pour piano」でしょう。これも女子供が裸足で逃げ出すピアノ独奏曲です。