伊福部昭の豪快な処女作を聴く!(後編)

putchees2005-06-12


「ピアノ組曲」(1933)について


(前編から続き)


一般には「ゴジラ」の作曲家として知られる
伊福部昭19歳の処女作、「ピアノ組曲」のお話しをしています。
興味のある方は、まず前編をお読みになってください。
(前編はこちら→id:putchees:20050611)

開拓期の北海道での幼少期


伊福部昭は、北海道は釧路に生まれ、
音更(おとふけ)という村*1で育ちます。
生年は1914年ですから、大正のはじめのころです。


東北地方からの開拓民が多くいた土地で、
彼は幼少の頃から東北各地の民謡などに親しみます。


そして音更には、アイヌのコタン(村)がありました。
伊福部少年はほかの和人の少年たちと違って、
アイヌの子供たちと分け隔てなく遊ぶのですが、
そのとき「民族が違うと、美観などの感性が決定的に異なる」
ということを肌で知ります。


たとえば、音楽の感性の違いです。
音を組織化する意識が、和人とアイヌとでは、
まるで違うということを思い知ったわけです。
アイヌの音楽は、自分には真似ができないのだと。


しかし、違いがあるからこそすばらしいということ、
それぞれの民族の音楽に、おのおの良さがあり、
お互い尊重すべきであるということを知ったのです。


同時に、アイヌの生き生きとした即興の歌を聴くことで、
音楽をはじめ、およそすべての芸術というのは、大地に根ざした、
生命力にあふれるものでなければならないということを肝に銘じます。


少年はまた、音楽好きの兄たちの影響もあって、
独学でヴァイオリンを始めました。


12歳になった彼は、札幌の第二中学校(札幌二中)に入ります。
ちょうどこの国の元号が昭和に変わるころです。
この北の都会で、彼は決定的な出会いをします。


北海道帝国大学(北大)教授の息子で、
ヨーロッパの音楽事情にめっぽう詳しい少年と親友になるのです。

ストラヴィンスキーとの出会い


北大教授の息子は、伊福部少年に、
ドビュッシーClaude DebussyラヴェルMaurice Ravel
サティErik Satieといった、
当時日本ではあまり知られていなかった作曲家を教えます。


なかんずく、ストラヴィンスキーIgor Stravinsky
春の祭典Le Sacre du Printemps」は、
伊福部少年にとって啓示ともいえる衝撃でした。
ブラームスJohannes Brahms
ベートーヴェンLudwig van Beethovenなどの音楽と違って、
確実にアジア人の感性に重なる音楽だと思われたのです。


教授の息子は言いました。
音楽をやる以上は、作曲をやらなければ無意味だと。


春の祭典」を聴いた伊福部少年は、
西洋の楽器を使ってこういう音楽ができるなら、
アジア人の自分にも何か作れるはずだと思い始めました。


そして、スコアや英語の管弦楽法(オーケストラの用法)の
本を取り寄せ、自力で勉強を始めたのです。


ふたりは長じて、大学に入学します。
伊福部少年は、北海道帝国大学の林学部に入りました。
もちろん、音楽の勉強は続けていました。
学生オーケストラのコンサートマスター
(ヴァイオリン)を務めたりしていました。

ドビュッシーの親友との交流


さて、教授の息子は、当時のエリート少年らしく、
英語に堪能で、海外の音楽家たちと文通をしていました。


その中のひとりに、
ジョージ・コープランドGeorge Copelandという
ピアニストがいました*2


ふたりの少年は、この人の弾くアルベニスIsaac Albenizなどの
スペイン音楽を聴いて、夢中になってしまったからです。


このアメリカ人ピアニストはドビュッシーの親友で、
彼の作品の初演を手がけたことがある人です*3


律儀なピアニストは、極東の少年に返信をします。
「地球の裏側にいて私の音楽が理解できるほどの人なら、
きっと作曲もできるはずだ。曲があれば送ってほしい」


親友の少年は、伊福部少年に、コープランドに送るための
作品を作ることをそそのかします。


そこで伊福部少年は、
五線紙にピアノ曲を書いて送ります。


それが、この「ピアノ組曲」だったのです。


そして、作曲をそそのかした少年は、
のちに高名な音楽評論家になります。
彼の名前を三浦淳史といいます。


伊福部昭は、のちに三浦淳史のことを、
「作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレス」と評します。


残念なことに、コープランドに送った「ピアノ組曲」は、
演奏されたかどうか、定かではありません。


楽譜を送ったあとに「ぜひ演奏したい」
という便りが返ってきたものの、
その後、ピアニストと連絡が取れなくなってしまったためです。


しかし、この曲は後にベネチアで開催された
国際現代音楽祭(1938)に入選、
マリピエロGian Francesco Malipieroの弟子、
ジーノ・ゴリーニGino Goriniによって公式に世界初演されます。

ヨーロッパの真似なんてするな!


独学でこういう曲を作るということにも驚かされますが、
その手法において、日本的な響きを追求するというところに、
もっとも驚かされます。


日本人であるぼくたちは、
「ヨーロッパ人に弾いてもらう曲を作るなら、
なるべくヨーロッパふうに響くような曲を作ろう」
などと安易に考えてしまいがちです。


相手に合わせることが、
相手に認められることだと考えるからでしょう。


ところが、伊福部少年は、そんなことは
ハナから考えていなかったようなのです。


幼少期のアイヌとの交流の経験から、
民族が違えば、美観が決定的に異なるということを知っていたからです。
つまりは、ヨーロッパ音楽の真似をしても意味がないと、
最初からわかっていたのです。


相手に合わせるなんて、できっこないし、
やっても、ろくなものはできない。
それよりは、どこまでも自分の感性で押し通したほうが、
いいものができるに決まっている。
そう考えたのです。


そして、ほんとうにいいものなら、
たとえスタイルや感性が異なっていても、
日本だのヨーロッパだのという国境を超えて、
誰にでも理解できるはずではありませんか。
ちょうど、伊福部少年がアイヌの歌やラヴェルを聴いて
魂をふるわせたように。

非ヨーロッパ的な響きを求めて


伊福部昭自身は「ピアノ組曲」の作曲の手法について、
こんなふうに語っています。


「私の場合、バスとメロディが同じだったり、いけないという
平行運動もやりますし、五度の平行運動なんかもわざとやるし。
『盆踊』なんかでは、右はE-molで左手はE-durなんです。
molとdurを重ねて。(中略)二楽章の『七夕』というのは
全部禁則です。平行五度ばっかりだから」*4


解説すると、「盆踊」では、右手と左手で、
同主音(E)の長調(Eメジャー)と短調(Eマイナー)を
同時に鳴らしているということです。
これは、音楽用語ではポリトーナル(polytonality多調性)という
当時最新の手法で、プロヴァンス生まれのフランスの作曲家、
ダリウス・ミヨーDarius Milhaudの得意技でした*5
もちろん、ヨーロッパの伝統的な
音組織のありようからは逸脱した手法です。


伊福部少年は、まったくの独学で、
これほど先鋭的な手法を使っていたのです。
聴けば古くさく、鈍重な曲のようですが、
実は、きわめて野心的な作品だということがわかります。


「七夕」で使われている「平行5度」というのは、たとえば、
「レとラ」の次に「ドとソ」をつなげることで、
いわゆるクラシックのハーモニーの考え方からすると、
洗練された響きではないので、まず最初に
「こういうのはやらないように」と教えられる、
「禁じ手」です*6


伊福部昭は、非ヨーロッパ的な音響を狙って、
わざとこの手法を使ったのです。
日本人の感性には、こうしたハーモニーが
合致すると考えたからです。


もちろん、そんなことをすれば、
「あいつはハーモニーのことを何も知らない」
とバカにされるに決まっています。


それでも彼は、ヨーロッパ音楽の教科書(楽典)に
書いてあるルールに逆らってまで、
自分の感性に忠実であろうとしたのです。


このように、少年伊福部昭は、10代の後半にして、
(誰からも教えられずに)ヨーロッパの猿真似でない、
日本独自の音組織にもとづく作曲法をやっていたのです。


はたして、これだけの自覚を持った創作者が、
(当時はもちろん)今日の日本にどれだけいるでしょうか?
鬼面人を威すようなエキセントリックな音響を狙って、
ルール破りをする作曲家はおおぜいいるでしょうが、
自分の感性に忠実であるためにルールを破ろうというほどの人が、
はたしているでしょうか?

「血の審美」を信じろ!


伊福部昭はまた、別のところではこんな風に語っています。


「三和音*7だとヨーロッパの響きになるものですから、
空虚五度*8で使うか三度で使うかにしている。
(中略)五度の音は、まあたまには入りますけど、
五度入れれば三度使わない、三度使えば五度を取る。
そうでなければEをFに上げてしまい、笙の和音のような具合に
C、F、Gとして、なるべくヨーロッパの響きがしないように
逃げて歩いてるわけです。そうするとみなさんに嫌われて(笑)」*9


たいへん興味深い発言です。


引用したもとのインタビューで、伊福部昭は、
伝統的な日本人の感性では、3度の和音は、
美しくないと感じられるのだと語っています。


近世邦楽などでは、2度の和音が尊重されます。
大正時代の邦楽演奏家は、
3度の西洋ふう和音を聴いて「濁った音だ」と
答える人が大多数だったといいます。


それが、西欧化されることで、
徐々に日本人の感性が変わってきたのです。
ぼくたちはふだん、3度の和音(ドミソ)を聴いて、
ああ美しいと感じるようになっています。


ところが、なにかの拍子に伝統邦楽を聴いたとき、
2度の和音*10を聴いて、
血の底に眠った日本人としての感性が目覚めるのです。


伊福部昭は、「血の審美」という言葉を使います。
弟子の作曲家・和田薫*11が、西洋と日本の美意識の葛藤に悩んだとき、
老師は「心配しなくても血が解決してくれますよ」と、
穏やかに答えたそうです*12


民族の美の感性は、明治以降たかだか140年ほどの時間では、
変えてしまうことができないような根深いものだと、
伊福部昭は言っているのです*13


迷ったときは、血の審美にまかせる、それが、
いいものを作る秘訣だということなのです。

「マイルス、ブルースを吹け!」


話が飛ぶようですが、
モダンジャズの名アレンジャー兼ピアニストの
ギル・エヴァンスGil Evansが、
トランペッターのマイルス・デイヴィスMiles Davis*14に、
ある日こう言ったのだそうです。


「マイルス、なんだかわからないものが楽譜に書いてあったら、
お前はブルースを吹け」*15


マイルスはジャズミュージシャンですから、
曲のアレンジに従って、即興演奏をします。
即興演奏には、いろんなスタイルがあるのですが、
そのとき、知らない曲調のアレンジが出てきたら、
迷わずブルースで即興演奏をやれ、
と、ギル・エヴァンスは言ったのです。


マイルスは黒人です。アフリカ系アメリカ人としての
強烈なアイデンティティを持ったミュージシャンです。


マイルスは、ブルースこそが、
自分の音楽のルーツであると感じていました。


ギルは、それを知っていました。
だから、マイルスがブルースを吹けば、曲のアレンジに関わらず、
最良の音楽ができるということを教えたかったのでしょう。


要するに、
「お前が自分の感性で演奏すれば、それでいいんだ」
ということです。


言い換えれば「迷ったときは、血の審美に任せろ」です。


ギル・エヴァンスとマイルスの共同作業によって生まれたアルバム、
「スケッチ・オブ・スペインSketches of Spain」(1960)を聴くと、
このことがよくわかります。


ファリャやロドリーゴJoaquin Rodrigoの曲をアレンジした
スペインふうのオーケストラサウンドの上を漂うマイルスのフレーズは、
アメリカ黒人のブルースを感じさせるものです。


スペインふうの演奏をしなくても、
マイルスの「血の審美」が、このアルバムを、
至上の美に満ちた音楽にしています。


自分の感性に従うことが、
もっともいい結果を産むのだということを示す好例です。


自分のアイデンティティに忠実に創作する。
一流のミュージシャンや芸術家というのは、
すべてそういうものであるはずです。

自分で聴いて、弾いて確かめよう!


伊福部昭の「ピアノ組曲」は、
この作曲家によるほかの作品と同様に、
ゆるぎない存在感と、あふれんばかりの生命力に満ちた傑作です。


誕生から70年以上を経たいまも、
聴く者の魂を揺さぶり、同時に、
すぐれた創作とはどういうものか、
そして日本人が音楽を作るとはどういうことか、
ぼくたちに問いかけ、挑発しつづけています。


この曲がもつ魔法のような魅力は、
これだけ言葉を尽くしても、決して表現することはできません。


ぜひ一度、あなたの耳で確かめてみてください。


楽譜も出ていますから、ピアノが弾ける人は、
自分で弾いてみるのも、楽しいと思いますよ*16


ちなみに、この「ピアノ組曲」は、
1991年、作曲者自身の手で大オーケストラ用に編曲され、
管弦楽のための日本組曲」として生まれ変わりました。


さらに1998年には、弦楽オーケストラ用に
「弦楽オーケストラのための日本組曲
として編曲されています。


前編で挙げたCDには、
その初演の模様が収められています。


そちらも、もし興味があれば聴いてみてください。
とくに、小林研一郎指揮、新交響楽団による
管弦楽のための日本組曲」は、腰が抜ける超絶演奏です。
そのうち、このレビューでご紹介したいと思います。


ただ、こんな曲を聴いていても、
女の子には、ぜったいにもてません。

*1:現・音更町

*2:20世紀前半の合衆国を代表する作曲家、コープランドAaron Coplandとはまったくの別人です。

*3:ドビュッシーコープランドのピアノを評して「自分が生きている間に、これほどすばらしい自作の演奏が聴けるとは思ってもみなかった」と語ったと伝えられます

*4:伊福部昭の宇宙」音楽之友社1992所収のインタビューより

*5:多調(複調)を最初に使った有名な例は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカPetrouchka」(1911)だといわれています。

*6:同様に、オクターブ離れた音が平行して動く「平行8度」も禁じ手とされています。ただ、今日のぼくたちが聴くと、どっちも、「全然フツーじゃん!」という響きです。ロックやポップスでは、当たり前のように使われていますから。

*7:たとえばドミソのような和音のこと。(引用者注)

*8:たとえばドとソ、だけのこと。(引用者注)

*9:出典は同上

*10:長2度だけでなく、短2度も日本の伝統音楽では和音です

*11:和田薫については、以下のレビューを読んでみてください→id:putchees:20041213

*12:和田薫「伊福部音楽の魅力」より。伊福部昭卆寿記念コンサートプログラムに所収。

*13:音楽学者の千葉優子は、現在のヒット歌謡曲でも、一見西洋化されたメロディの中に、4度の動きを中心とする日本の伝統的な音組織がしばしば顔を出すと述べています。(「日本音楽がわかる本」音楽之友社2005より)

*14:いわずと知れたジャズの「帝王」

*15:語句は正確ではありませんが、どうせ元は英語ですから、引用が正確じゃなくてもいいでしょう。

*16:全音楽譜出版社から出版されています。本体1500円です!ISBN:411168310X http://store.yahoo.co.jp/gakufu-net/13613.html