豪華絢爛!メシアンのトゥランガリラ交響曲を聴く!(後編)

putchees2005-07-03



クラシックのコンサートレビューです


(前編よりつづき)


前編から時間があいてしまいましたが、
東京都交響楽団のコンサートレビューのつづきです。


超個性派指揮者、井上道義が、
フランス孤高の作曲家、メシアンOlivier Messiaenの大作
「トゥランガリ交響曲Turangalila Synmphonie」を振る
というプログラムです。


クラシック音楽だからといって、
「ああ、どうせ眠くなる音楽ね」なんて、
バカにしちゃいけません。


世界最古の電子楽器、
オンド・マルトノondes martenotの独奏と、
人間離れしたフレーズ連発のピアノ独奏、
そして大オーケストラが
狂乱の音響マンダラを描くという、
それはそれはモノスゴイ曲なのです。


寝ているどころじゃありません。


もし興味を持った方は、前半からどうぞお読みください。
id:putchees:20050628

最初はハラダタカシの自作曲から


当夜のステージは、
時間通り19時過ぎに始まりました。
1曲目は、オンド・マルトノ奏者・原田節
自作のオンド・マルトノ協奏曲です


薄暮、光たゆたふ時」


という、文学作品めいた標題がつけられています。


2管編成の中規模オーケストラの前に
オンド・マルトノが鎮座して、ホニョホニョと、
不可思議な音色を奏でます。
演奏時間は17分ほど。


オンド・マルトノのためのコンチェルトは、
ジョリヴェAndre Jolivetや
トリスタン・ミュライユTristan Murail*1
西村朗*2といった作曲家が残しています*3


チェレスタのチロチロという音と
オンド・マルトノの掛け合いから始まります。
ゆるやかに、そして少しずつ盛り上がっていきます。
現代曲らしい複雑な響きですが、決して前衛ではありません。


井上道義は、コンサート前のプレトークで、
ジャズの影響について言及していました。
たしかに注意深く聴けば、
モダンジャズっぽい響きを確かめることができました。
しかし、それはごく部分的な要素でしょう。


オンド・マルトノ奏者が作った曲らしく、
この楽器の特性を活かした、たいへん技巧的な曲だったと思います。


フィナーレの前に置かれた長大なカデンツァ(ソロパート)が、
いささかバランスを欠くように思われましたが、
技巧的なコンチェルトにはしばしばありがちのことです。


最後は、オンド・マルトノの弱音が長く引き伸ばされて、
静寂の中に消えていきます。


なるほど、標題の「薄暮」を思わせる締めくくりです。
この部分の緊張感はなかなかのものでした。


傑作とはいえませんが、
オンド・マルトノの顔見世としては、
悪くない曲だったのではないでしょうか。


しかしまあ、言ってみればこの曲は前座です。
演奏者が軽く肩慣らしという感じでしょうか。


ちなみにこの曲では、
コントラバスクラリネットの音が印象的でした。
バスクラリネットの、
さらに1オクターブ下の音域を担当する楽器です。
めったにお目にかかることのできない楽器ですから、
ぼくは演奏中、注意深く見ていたのですが、
時おり聞こえてくるゲボゲボという超低音は、
たいへん個性的でした。

いよいよメインイベント!


さあ、20分の休憩が終わって、いよいよ
「トゥランガリ交響曲」です。


この奇妙なタイトルは、サンスクリット語
合成語だそうです。


フランスの作曲家、メシアンの曲です。
作られたのは、1948年。


この曲は、なんと10楽章。演奏時間は80分ほどに及びます。


80分!


ちょっとした映画くらいの時間です。
すべてを楽しむには、トイレをガマンしなくてはなりません。


ふつう、交響曲(シンフォニーSymphony)というのは、
3楽章から4楽章で構成されています。
演奏時間は、30分から40分というのが標準的です。


ところが、この曲はそういう常識を
完全に凌駕しています。


CDだとまるまる1枚、
この曲だけで埋まってしまいます。


大オーケストラが80分間に鳴らす音を、
すべて自分ひとりで書くことを想像してみてください。
それだけで、気が遠くなりそうです。


前編で書いたように、
100人を超す大オーケストラが、
ステージにずらりと並びます。


舞台上手から井上道義、原田節、
そしてピアノ独奏の野平一郎が登場。


外国からソリストを呼ぶわけではなく、
今夜は純日本製の「トゥランガリラ」というわけです。

冒頭からアクセル全開!


井上道義が指揮台に登り、オケとソリストに向かって
うなずき、タクトを振り上げます。


「ジャジャジャジャジャジャジャジャジャ、ジャー!」


という、猛烈なスピードの強奏で始まります。
もう、最初からアクセル全開です。


ストリングスが息せき切ってアルコをゴシゴシ動かします。
金管群が、ハイノートのファンファーレを高らかに鳴らします。


このド迫力はどうでしょう。


カビの生えた、いわゆるクラシックでは、
こうはいきません。
現代曲ならではのスピード感です。


そしてこのモダンなメロディとハーモニーは
どうでしょう。
可笑しくなるくらい、ケレンに満ちています。


金管木管、弦楽、打楽器、
そしてピアノとオンド・マルトノ
これらがさまざまに組み合わされて、
千変万化、ほとんど無限の音色をつむぎだします。


聴衆は首根っこをつかまれて、
めくるめく陶酔の世界にたたき込まれるのです。
もういやおうなしです。


冒頭からほとんど休みなしで、
前半の5楽章はひたすらパワフルに突き進みます。
第5楽章は、たいへんみごとなフィナーレです。
普通の曲なら、そこで終わるところでしょう。


ところが「トゥランガリラ」は、
これでようやく中休みなのです。
井上ミッチーが、タオルで汗を拭います。
休憩に入ることもなく、後半戦に突入。


第6楽章以降は、うってかわってゆるやかに進んでいきます。
ちょっと眠くなりますが、真のフィナーレに向かって、
ふたたび昂揚していきます。
聴衆の目も覚め、最後は全身がふるえるような感動が待っています。


80分間の長丁場ですが、なかなか飽きさせません。

オーケストラが悲鳴を上げる超難曲


もちろん、こんな曲は、
オーケストラにとってたいへんな難物です。


金管とピアノ、そしてパーカッション群の重労働ぶりは、
見ていてかわいそうになるほどでした。


わけても金管パートは、全パート中で、
もっともしんどいのではないでしょうか。
後半の緩徐楽章を除いて、
ほとんど出ずっぱりという感じですから。


もちろん、井上道義の指揮はバリバリのノリノリでした。
ときに踊るように、ときに荒武者のように。
とにかく楽しそうに指揮していました。


第2楽章のラストでは、井上ミッチーが
握り拳を「せい!!」と繰り出すのと同時に
大太鼓が「ドスン!」と気持ちよく鳴り響きました。
最高のカタルシスを感じる瞬間でした。


井上ミッチーここにあり、という感じです。


後半はオケも指揮者もさすがにしんどそうでしたが、
80分間のフルマラソンを、全速力で駆け抜けたという印象でした。
この曲の実演を見るのは初めてなのでわかりませんが、
力演と呼べるステージだったのではないでしょうか。


下品すれすれのポップな音楽


この曲は、ちっとも前衛ではありません。
それどころか、ほとんど下品ともいえるような、
単純明快なメロディがぽんぽん飛び出してきます。


もちろん、いかにも現代音楽的な、
複雑きわまりない曲なのですが、難解さとはおよそ無縁。
たいへんポップで、純粋に楽しんで聴ける曲です。


しかも、リズムがすごい。
変拍子の嵐。そこらのプログレなんてメじゃありません。


聴いていて、この曲にあふれる音楽の豊かさに
驚嘆するばかりでした。


これほど魅力的な旋律が、
惜しげもなく詰め込まれた20世紀音楽が、
ほかにあるでしょうか?


ちょっとヘンな話ですが、現代の曲*4には、
あまりに「音楽」が欠けた作品が多いと思うのです。


ところが、この曲はどうでしょう。
音楽が、つぎつぎとあふれてはこぼれ、
尽きるところを知りません。


そして、これらの旋律は、
ほんとうに下品といわれかねないような、
わかりやすい、歌えるようなメロディです。


二流の作曲家なら、こんな明快なメロディは
使うのをおそらくためらうでしょう。
なぜなら、自分が二流だということがバレてしまうからです。
しかし、メシアンは一流ですから、ためらったりはしません。
下品だと言われることが、なんだというのでしょう。
これこそ真の芸術家というものです。


そしてこの曲は、冒頭からパワー100%全開で始まります。
二流の作曲家なら、もったいぶってはじめるところです*5
しかしメシアンは、いきなり猛スピードのフォルテから始めるのです。
こんな堂々とした曲は、第二次大戦後の音楽の中から
見つけるのはたいへん難しいのです。


どこを取っても、一流のしるしと言えるでしょう。

あけすけな性愛の喜び!


メシアンは、敬虔なカトリック信者として知られていますが、
この曲は、キリスト教的なストイックさとは、まるで無縁。
デュオニュソス的な、生のよろこびに満ちています。


この曲のタイトルの意味するところは、
おおよそ「愛の賛歌」ということだそうです。


しかし、ここで表現されているのは、あきらかに、
ストイシズムではなくて、放恣な恋愛そのものです。


わかりやすくいえば、日本神話とか、ギリシャ神話に
出てくるような、あっけらかんとした、セックスの喜びを
想起させるような音楽なのです。


こんな曲は、寒い北ヨーロッパでは、
決して生まれることはないでしょう。


メシアンは、アヴィニヨンAvignonの出身だそうです。
ローヌ川の流れる、フランス南部の温暖で美しい街です。
なるほど、これこそはまさにラテン的、
地中海的な明るさというわけでしょうか。


作家の出身地の風土を作風に結びつけるのは
愚かなことだという人がいますが、
こういう例を見ると、決して
無意味なことではないという気がします。

陽気なアジア風サウンド


それにしても、陽気な曲です。
からりと晴れた日を思わせる能天気さです。
決して純西洋ふうの音響ではありません。


こんなムードの曲は、クラシック音楽の中で、
ほかに似たものが思い出せません。


メシアンインド音楽ガムランなどの要素を
この曲に取り入れています。


ことにガムランのリズムは、
そこかしこで強く感じることができます。


こうした東洋色こそが、
「トゥランガリ交響曲」の作り出す
明るいムードの秘密のひとつです。


もちろん、アジア音楽の要素といっても、
あくまで西洋風に理解されたものにすぎませんが、
それでも、魅力的なリズムやメロディが
横溢していると感じられます。


西洋は昔から、東洋のものを貪欲に吸収して、
みずからの伝統の中に組み込んできました。


たとえば、
中世末にはアラブ世界の科学や哲学を、
近代になってからは、
喫茶や陶器など東アジアの文物を。


日本人なら、浮世絵が
19世紀後半における印象派絵画に与えた影響を
思い出してみるといいでしょう。


西洋文明は、そのようにして、
東洋の文明を吸収することで、
みずからの文明をいっそう堅固で
多彩なものにしてきたのです*6


この「トゥランガリ交響曲」もまた、
東洋の伝統を消化吸収して、西洋人が
自家薬籠中のものにしたひとつの典型です。


東洋的な多彩さ、華々しさがありながら、
西洋的な構築性をそなえています。


まるで色鮮やかなアジアの市場が、
石造りの巨大なカテドラルに収められているようです。


こんな音楽を耳にすると、
アジア人のぼくたちは、
おとなしく白旗を揚げるほかありません。


「こんなもの作られたんじゃ、
やっぱりヨーロッパにはかなわないや」
…てなもんです。

ヨーロッパ音楽の伝統の深みに圧倒される


人はものすごいものを目にして、
ときに笑い出すことがあります。


たとえばぼくは、初めて出かけたヨーロッパで、
ローマのサンピエトロ寺院Basilica di San Pietro in Vaticano
を目の前にして、感動のあまり
笑い出してしまいました。


考えてみればおかしなことです。
しかし、度を超したものには、
ある種のユーモアがあるのではないでしょうか。


この「トゥランガリ交響曲」を耳にして、
ぼくは同じように笑いがこみ上げてきました。


どうしてここまで
大がかりなものすごい曲を作っちゃったんだろうと、
笑うしかなかったのです。


マーラーなんかもそうですが、
ヨーロッパの音楽というのはほんとうに過剰です。


「トゥランガリラ」は、
その極致のひとつなのではないでしょうか。


あまりに度を超してスケールの大きな曲なので、
可笑しくなったわけです。


アジアの要素を取り入れて、
これだけ見事な西洋の音楽を作ってしまうのですから、
ヨーロッパ音楽の伝統というものは、やはりスゴイものです。


いかに東洋の音楽がすぐれているといっても、
こんな曲を前にすると、
やはり負けていると感じざるをえません。


それほど強烈なバイタリティにあふれた音楽なのです*7

アジアの音楽家も負けるな!


この曲の前にはだれでも降参するしかないのですが、
それでも、これを聴いて
「なにくそ!」と発憤しないとしたら、
アジアの作曲家は、その時点ですでに
ヨーロッパ音楽の前に敗北しています。


もちろん、この曲を作り出す感性と才能は、
アジア人のぼくたちのものとは、
まるきり別種のものです。


真似したって、こんな音楽は
できっこないのですから、アジアの音楽は、
まったく別の道を歩むしかありません。


アジアならではの、巨大なスケールの音楽とは、
はたしてどういったものなのでしょうか。
しかし、それを作り出す方法はきっと存在するはずです。


「トゥランガリ交響曲」に匹敵するだけの曲を
作ることのできる音楽家が、
このアジアから現れることを祈ってやみません。

音楽は耳と目で聴くもの


「CDじゃだめ。コンサートがいちばん」というのは、
ジャンルを問わずよく言われることですが、
この曲では、まさにそれを実感しました。


ステージ上の実演では、それぞれの楽器を、音だけでなく、
目で確かめることが可能です。


そのため、CDでは区別することができなかった
細かな音を、目で見て確かめることができるのです。


ああ、この音はオンド・マルトノが出していたのか、とか、
ストリングスの細かな動きはこうなっていたのか、とか、
いちいち見て確認することができたのです。


当たり前のことですが、音楽は、
耳だけで聴いているわけではないのです。
こういう曲こそ、実演を聴くべきです*8


さらに当たり前のことですが、
CDと実演とは、まるで別物だということを、
こういうコンサートが教えてくれます。


そして、この曲の演奏を目で見てもっとも驚嘆したのは、
ピアノの重要性についてです。

実は一種のピアノ協奏曲


この曲の楽器の配置は、
指揮者の左右にオンド・マルトノとピアノが並んでいます。
ちょうど二重協奏曲Double Concertoのようなかっこうです。
しかし実際に見た感想は、
ピアノ協奏曲といってもさしつかえないほどでした。


オンド・マルトノの音は、輪郭がはっきりしないため、
高音の弦や木管の音にマスクされて、
しばしば聞こえなくなってしまいましたが、
ピアノの音は、オケがトゥッティ(総奏)になっても、
決してマスクされず、存在感を強烈にアピールしていました。


さらにピアノには、しばしばカデンツァが与えられ、
ムツカシそうなフレーズをバリバリと弾かされます。


今回のピアニスト、野平一郎は、
信じられないような指の動きで、
それらのフレーズを完璧に決めていきました*9
あんなに難しそうなことをやっているとは、
CDではわかりませんでした。


この人も、原田節と同じく、
パリのコンセルヴァトワールに通った俊英です。
風貌はアヤシイのですが、音楽家としては一流です*10
オンド・マルトノに負けるか!てな感じだったのかもしれません。


ところでオンド・マルトノは、
スピーカーからの音量や、ぼくが座っていた座席の位置の
問題もあったのか、いささか存在感が弱い印象でした。


それでも、最終第10楽章での壮絶なフィナーレで現れる、
不思議なメロディは、
まさしくオンド・マルトノここにありで、
オケ全体に匹敵する存在感を示していました。

文句なしのステージ


そしてそのフィナーレ、オケ全体が最高潮に達して、
清澄なメジャーの和音が大音量でかき鳴らされます。
80分間の締めくくり。
これを聴いて感動しない人がいるでしょうか?


ジャン!と、文句なしのエンディング。
井上道義のタクトが上がったままなのですが、
客席は大喝采です。


ブラヴォーの声も、いくつか上がっていました。


井上ミッチーとソリストふたりは、
喝采に応えて、何度もステージに現れます。


文句なしの名曲と、力のこもった演奏、
たいへん充実した2時間でした。
観客の多くは満足できたのではないでしょうか。


都響、ふたりのソリスト
そして井上道義に大感謝です。


すばらしいプログラムでした。
帰り道は、第10楽章の主題を自然に口ずさんでいました。
こんな現代音楽は、めったにありません。


つくづく思うのですが、
こんな曲を、上品なマダムたちだけに聴かせておくのは、
ほんとうにもったいないです。


ぜひ、ひとりでも多くの若い音楽ファンに
聴いてもらいたいと思います。


真にスバラシイものは、ジャンルの分け隔てなく、
誰にでもわかるはずですから。


もしこのレビューを読んで興味を持った方がいれば、
ぜひ、CDでいいので、この曲を聴いてみてください。


そして、できればいちど、
生のオーケストラで聴いてみてください。
そう、都響なんてどうでしょうか。


たまにはオーケストラなんかもいいものですよ。


しかしもちろん、こんな曲を聴いていても、
女の子にはぜったいにもてないですけどね。

*1:「空間の流れ Les Courants de l'espace」(1979)

*2:アストラル協奏曲「光の鏡」 オンド・マルトノとオーケストラのための(1992)

*3:そのうちもっとも有名なのは、ジョリヴェの作品でしょう

*4:もちろんクラシック/現代音楽界に限った言葉です。

*5:それも、大作であればあるほど。

*6:アルゼンチンの小説家、ボルヘスJorge Luis Borgesは、どこかで「東洋は昔から西洋の伝統だ」と述べています。西洋は、2000年前から東洋に憧れてきたということです。反対に、東洋は西洋を知らないか、あるいは無視してきました。

*7:バイタリティというのは、ほんらいは東洋のお家芸といってもいいようなものなのですが。

*8:井上道義はコンサート主義で、CDをほとんど聴かないそうです。

*9:さらに、難しいフレーズを弾いた直後に、もっともらしいポーズでカッコつける余裕まであったのです。スゴイ!

*10:野平一郎は、作曲家としても活躍しています。2002年にはギタリスト、スティーブ・ヴァイSteve Vaiのために、超絶技巧を必要とするエレクトリックギター協奏曲「炎の弦」を作曲して話題を呼びました。