武満徹の雅楽「秋庭歌一具」を聴く!

putchees2005-10-11


今回はコンサート報告です


伶楽舎第七回雅楽演奏会〜伶倫楽遊〜
(伶楽舎創立20周年記念 武満徹生誕75周年記念)


日時:2005年10月2日(日)14:00〜16:00
場所:東京赤坂・サントリーホール(大ホール)

曲目


第1部:芝祐靖作曲『瑞霞苑』 
第2部:武満徹作曲『秋庭歌一具

ミュージシャン


雅楽:伶楽舎
舞:小林勝幸、廣本康真(左舞)本橋文、酒井麻椰(右舞)

「現代雅楽」を聴いてきました


雅楽は、1200年以上前から続く日本の宮廷音楽です。
中国、朝鮮、渤海などから伝わった音楽を
日本風にとりまとめたものです。


だいたい1100年前に現在とほぼ同じかたちになって以来、
ここ1000年ほど、新作は作られていませんでした。


しかし30年ほど前から、
雅楽の新曲が作られるようになってきました。


きょうは、その新作雅楽の中でも、
もっとも有名な曲を聴いてきました。


武満徹(たけみつ・とおる1930〜1996)の
秋庭歌一具」(しゅうていがいちぐ)です。


武満徹は、日本の作曲界で世界にもっともよく知られた人です。


演奏するのは、元宮内庁楽部の龍笛奏者・芝祐靖(しば・ゆうすけ)
率いる、民間の雅楽演奏集団・伶楽舎(れいがくしゃ)です。

退屈な音楽


最初に白状しますが、ぼくは武満徹の音楽が苦手です。


なぜなら、退屈だからです。


明快なリズムもメロディもありませんし、
ドラマチックな展開もありません。
曖昧な音響がいつのまにか始まって、
いつの間にか終わっているという感じです。


彼のオーケストラ曲を、ホールで聴いたことも何度かありますが、
そのたびに、眠気と戦うのにたいへん苦労しました。


どうして世界中の有名なミュージシャンや批評家が、
これほど武満徹のことをほめるのかわかりません。


みんな、ホントに聴いたことあるのかな?と、
勘ぐってしまいます。


武満徹が好きです」っていうと、なんかインテリっぽくて
かっこいいと思ってるだけじゃないのか?
そんなことも考えたりします。


小学館から「武満徹全集」という驚愕の商品が出ていますが、
はたして誰が聴いているのか、皆目わかりません*1


武満徹の音楽がわからないのは、
自分の感性が貧しいからではないだろうか?と、
自分自身に疑いの目を向けたこともあります。


しかし、最近は「わからなくて何が悪い」と、
開き直るような気持ちになっています。


だいたい気に入らないのは、意味ありげでもっともらしいことです。
音楽の内容もそうですが、「十一月の霧と菊の彼方から」だとか、
「鳥は星形の庭に降りる」だとか、いかにも芸術くさいタイトルは
どうしたことでしょう。勘弁してくださいと言いたくなります。


音楽の内容が、いかにも曖昧模糊としているのもたまらないです。
ふにゃふにゃしてて、いらいらします。
男ならもっとしゃっきりせい!と怒鳴りつけたくなります。


そして「個性の表出」という、現代の芸術全般に蔓延する病気が、
武満徹の音楽からいやというほど臭ってきます。


しかしまあ、悪口はこのへんでやめておきます。
読んであまり気持ちのいいものではないですよね。


ぼくは武満徹の音楽が苦手であるということを
記しておけばじゅうぶんです。


それでもこうして繰り返し聴きに行くのは、
「よく知りもしないで批判するな!」と言われるのがくやしいからです。
我慢できる限りたくさんの曲を聴いて、
その結果堂々と「嫌いだ!」と言いたいからです。
ぼくはまったく、負けず嫌いなのです。

一曲目「瑞霞苑」


さて、会場となったサントリーホールの客の入りは、
だいたい3〜4割ほどという感じでした。


いささか閑散としていましたが、それでも、
こんなマイナーなジャンルのコンサートですから、
多くの聴衆に恵まれたといえるのではないでしょうか。


もちろん、若くてかわいい女の子なんていやしません。
(もしもいたらごめんなさい)
オジサマオバサマと、あとはたぶん音楽学生とマニアだけです。
いやでも音楽に集中するしかありません。
(あたりまえか)


舞台の上は、雅楽流にしつらえられています。
普段のクラシックのコンサートとおもむきがちがうので、
わくわくしてきます。


さて、一曲目は伶楽舎を主宰する芝祐靖が作曲した「瑞霞苑」です。
皇居の美しい春の景色をイメージした曲だそうです。


元宮廷楽師の作というだけあって、新作ながら、
古典的な雅楽を感じさせる曲でした。


さまざまな曲を組み合わせて構成されています。
なかなか複雑です。


この曲には、舞がついていました。
雅楽で番舞(つがいまい)と呼ばれる、
左舞(さまい:中国風の舞)と右舞(うまい:朝鮮風の舞)のふたつです。
前者は、伝統的に赤い衣装で、後者は青い衣装なのだそうです。
今回もその流儀に従っていました。


それぞれ、ふたりずつが舞台に上って舞を披露します。
前者はスタティック、後者はダイナミックな動きで、
動作の意味はわからないながら、たいへん印象的でした。
この舞も、新作の振り付けなのだそうです。
なるほど、宮廷の洗練された動作とは
こういうものかという気がします。


さて音楽のほうです。
演奏者は20人。指揮者はいませんから、
西洋でいえば室内楽のアンサンブルふうです。


使用されている楽器は以下の通り。
●笙(しょう)雅楽で唯一、和音を奏でられる竹の楽器*2
篳篥(ひちりき):オーボエと似た構造の、ダブルリードの笛。
龍笛(りゅうてき):横笛。
●琵琶(びわ):雅楽で使われる琵琶は楽琵琶ともいわれます。
●筝(そう):13弦の筝。雅楽用は楽箏とも。
●鞨鼓(かっこ):つづみ。バチで叩きます。
●太鼓(たいこ):枠からつるされているので釣太鼓、また楽太鼓とも。
鉦鼓(しょうこ):かねのこと。これもつるされていて、バチで打つ。


伝統的な衣装をまとい、烏帽子をかぶった奏者たちが、
歌いながら舞台に現れます。そして、おもむろに*3演奏をはじめます。


劈頭、笙の不思議な和音が鳴った瞬間に、鳥肌が立ちました。
1000年の伝統に支えられた響きの、なんと豊かなことでしょう。
篳篥がおもに旋律を取り、龍笛がそれと同じメロディをつかずはなれず奏でます。
笙の和音に支えられながら、筝と琵琶がリズムとメロディにいろどりを添えます。


劇的な展開があるわけではないので、
しばらく聴いていると眠くなってきますが、
この単調さmonotonyこそが、雅楽の特色かも知れません。


やがて舞が始まったので、眠気が遠のきます。
そうこうするうちに演奏が終了し、また、奏者が低い声で歌いながら
舞台袖に去っていきます。
新作だけあって、このあたりの演出が現代的です。


全体を通して見ると、単調ながら、
たいへんおもしろい舞台でした。

二曲目「秋庭歌一具


休憩をはさんで、いよいよ武満徹の「秋庭歌一具」です。
おそらく、きょうの聴衆のほとんどは、この曲が目当てでしょう。


「ノヴェンバー・ステップスNovember Steps」*4と並んで、
おそらく武満徹のもっとも有名な曲のひとつだからです。


この曲は1979年の初演以来、世界各地で演奏されてきましたが、
伶楽舎にとっては、今回でなんと20回目の演奏だそうです。


この曲は、一種の組曲suiteです。
「一具」というのは「suite」というのと同じでしょう。
6つの曲で構成されています。


それぞれの曲は以下のようなタイトルになっています。


●参音声(まいりおんじょう)STROPHE
●吹渡(ふきわたし)ECHO 1
●塩梅(えんばい)MELISMA
●秋庭歌(しゅうていが)IN AN AUTUMN GARDEN
●吹渡二段(ふきわたしにだん)ECHO 2
●退出音声(まかでおんじょう)ANTISTROPHE


なんのことやらわかりませんが、
とりあえずここで詳述する意味はないでしょう。
興味のある人は調べてみてください。


そして楽器の構成は以下のようになっています。


●鞨鼓
●太鼓
鉦鼓
●琵琶
●筝
●笙
篳篥
龍笛
高麗笛(こまぶえ)横笛です
●木鉦(もくしょう)木を槌で打つ。音程のないマリンバみたいな音色


以上の通りで、前半の「瑞霞苑」とほぼ同じです。
木鉦以外は、通常の雅楽で使われる楽器です。


楽器の配置は、現代音楽らしい工夫がなされていました。
舞台の中央、後方、左奥、右奥、そして左右という合計6か所に分かれて
楽器群が配置されるのです。


この結果、たとえば木鉦の音が、中央、そして左右で
こだまするように響いていました。
音が舞台の上を縦横に動き回る効果を狙ったようです。
これは、CDで聴いてもなかなかわからないおもしろさです。


しかし、真に効果的で、音楽的に意味があるのかと問われれば、
いささか疑問です。


黛敏郎の「涅槃交響曲Nirvana Symphony」でも、同様の効果を狙って
オーケストラの一部が客席に配置されるのですが、
真に効果的かどうかは首をひねってしまいます。


この曲にも指揮者はつきません。
各楽器の奏者は、他の演奏者の音と、目の合図で音を合わせます。


演奏者の衣装は前半と同じく、雅楽の正装に烏帽子です。
中央の奏者の一群は通常の雅楽の作法通り、あぐら(?)をかいて
いましたが、その他の奏者は椅子を使用していました。
また、奏者はそれぞれ楽譜を見ながら演奏していました。
こういったところが、伝統音楽というより、西洋音楽的な雰囲気です。


奏者は合計29人。かなりの規模のアンサンブルです。
そして演奏時間は約50分。大曲と呼べる規模です。

くやしいけど美しい


さて、演奏が始まります。
木鉦のポコポコという音が舞台に響きます。


フワー、という笙の響きに誘われて、
篳篥の旋律がウワーンと浮かんできます。
同時に鳴る笛の音が、ヒヨヒヨとまるで風のようです。
そして筝がパラリン、と渋い音でかき鳴らされます。
おお…幽玄な響きではありませんか。


いかに武満徹が嫌いなぼくでも、このサウンド
美しいと認めるほかありません。


この曲は雅楽の楽器の特性を生かしているので、
正確な音程にはこだわっていません。
美しいユニゾンを楽しむというよりは、
音色の変化を味わうのです。


笙の和音が、雲間から射し込む光の帯のようです。


笛の合奏は、まるで鳥の鳴き交わす声のようです。


篳篥のうねるような旋律が、無窮の時間を感じさせます。


筝と琵琶の典雅な音は、ぼくたちを俗世間から連れ去ってしまいます。


鞨鼓と太鼓が、催眠術のようにゆったりとしたリズムを刻みます。


この曲にはピアノからフォルテへ、またその逆といった
ダイナミクスの変化はあるのですが、
普通の音楽に見られるような、ドラマチックな盛り上がりとは
異質なものです。気まぐれな音の波が寄せては返すように、
強くなったり弱くなったりしながら、
ゆらゆらと漂っていくだけです。


したがって、たいへん眠くなる音楽です。
夢の中で聞こえる音楽という形容がぴったりしそうです。


ぼーっと聴いていると、音楽がステージから溶け出して、
世界のあらゆる音と融合してしまいそうな錯覚にとらわれます。


この音楽を聴き終えた後でも、都会の喧噪や、
滝壺の轟音の中から、この曲の残響が聞こえてくるような気がします。


それくらい、曖昧でもやもやした音楽なのです。


曖昧な音楽は嫌いですが、それでも、
この音楽を美しいと認める率直さは持ち合わせています。


だらだらと長い音楽は嫌いですが、それでも、
この曲に50分という時間が必要なのは理解できます。


眠くなるし、退屈だし、
決して魂をふるわせるほど感動的ではありませんが、
いい音楽です。

篳篥の合奏に眩惑される


この曲は、通常の雅楽の様式からは、そうとう逸脱しているようです。
各楽器の奏者にも、伝統的な奏法にない指遣いが要求されるそうです。


それぞれの楽器の中で、もっとも印象的だったのが
篳篥のかなでるメロディです。


まるで人が話しているような抑揚を感じさせるのです。
複数の篳篥が、わんわんとうなりをあげる部分では、
まるで古代の貴人が、宮廷内で騒いでいるような印象でした。


篳篥の群れが奏でる謎めいた音響が、
ホールいっぱいに広がります。


西洋音楽の美観でいうと、とんでもない不協和音です。
しかし、たいへんすごみのあるサウンドです。


こうした各楽器の個性的な音色こそが、
この曲のもっとも魅力的な部分でしょう。

西洋人の考える日本文化そのもの


曲の最後は、冒頭と同じ、木鉦のポクポクという音で終了します
静寂から現れた音が、また静寂の中に消えていくというわけです。


いかにも幽玄で、わびさびという言葉がぴったり合います。


西洋人の考える、高尚な日本文化のイメージにぴったりです。
思うに、武満徹がインテリの西洋人にもてはやされるのは、
このためではないでしょうか。


禅や能楽といった、高い精神性や高度な洗練を感じさせるものに、
彼らは弱いようです。


武満徹の音楽は、日本文化のスタティックで洗練された面を
代表するものだと考えられているようです。


西洋人がほめれば、日本人は無条件でその評価に従いますから、
必然的に、武満徹は日本を代表する作曲家ということに
なってしまったのでしょう。


反対に、ダイナミックで野蛮なヴァイタリティに溢れた作風の
代表は伊福部昭です。こちらは、西洋が思い描く日本文化のイメージから
逸脱していますし、知性も洗練もそなえていないと
見なされてしまうので、世間的な評価は低いのです*5


伊福部昭は、雅楽の編成に近いアンサンブルを使って、
郢曲 鬢多々良」という曲を書いています*6
この曲と「秋庭歌一具」をくらべると、ふたりの作曲家の資質の
違いがあらわになります。

雅楽オーケストラはすばらしい楽器だ


それはともかくとして、「秋庭歌一具」を聴けば、
西洋人がほめようがほめまいが、
武満徹の才能の豊かさは明らかです。


伶楽舎のメンバーは手練のわざで、この曲を
みごとに料理していました。
今回はなかなか満足度の高いコンサートでした。


この曲はまさに現代音楽なのですが、
しかし、それでもこれはまさしく雅楽だという気がします。
それは「雅楽オーケストラ」という楽器*7の音色が
あまりに個性的だからでしょう。


この音色は、雅楽の楽器でしか出せないサウンドです。
世界じゅうの音楽家が、このサウンドをうらやむはずです。


この曲を聴いたら、世界じゅうの作曲家が
神秘的な雅楽オーケストラのために
曲を書きたいと思うのではないでしょうか。


しかし、おそらくどうがんばっても、
日本の作曲家よりすぐれた曲を作ることは難しいでしょう。


それは、雅楽が日本のものだからです。
自分の国のものは、自分たちがいちばんよくわかります。
イーリアンパイプuilleann pipesのことは
アイルランド人がいちばんよく知っていますし、
シタールsitarは、インド人がもっともうまく扱うことができるのです。


日本人であることは、雅楽の新作を作ろうとするとき、
圧倒的なアドバンテージになります。


日本人の芸術家には、
自分の身近にある日本的な素材を避けたがる人が多いのですが、
どうして、アドバンテージをみすみす捨てるのかわかりません。


武満徹のように、日本人であることのアドバンテージを
活かして創作したほうが、世界に通用するのではないでしょうか。


どうあがいても日本人であることからは逃れられないのですから、
いっそ開き直ったほうがいいと思うのですが。


秋庭歌一具」のように、
雅楽オーケストラのためのすぐれた曲がつぎつぎと現れることを
願ってやみません。


そうすればひょっとすると、外国でも、それらの曲を演奏するために、
雅楽オーケストラが結成されたりするかもしれませんよね。


日本が西洋オーケストラを輸入したように、
外国が雅楽オーケストラを輸入するということが
あってもいいではありませんか。

武満徹はおしゃれな音楽なのか?


余談ですが、数年前、表参道に住んでいる
おしゃれな友人のうちに遊びに行ったら、
スティーブ・ライヒSteve ReichのCDと一緒に、
この「秋庭歌一具」のCDがおいてありました。


彼は最先端のクラブでDJをやったりしているような人なので、
そういう人がこの曲を聴くということは、武満徹の音楽が、
ファッションの一部として認められているということなのかも
知れないと考えました。


スティーブ・ライヒやジョン・アダムスJohn Adamsなどと一緒に
武満徹を聴くのがおしゃれなのかもしれません。


たしかに、この「秋庭歌一具」は、
個性的なBGMとしてちょうどいいかもしれません。


しかし、コンサートホールで聴く限りでは、
ちっともおしゃれではないし、
とても女の子にもてそうな音楽ではありませんでした。


ぼくみたいに、ひとりで憂鬱に聴いているのが似合いそうです。

チンプンカンプンな曲ばかりですが


もし、武満徹の名前だけ知っていて、あれだけ有名なのだから
さぞかしすばらしい曲を……たとえば久石譲のように
センチメンタルな曲を書く作曲家だと思っている人がいたら、
よっぽど覚悟してから聴いてください。


チンプンカンプンな曲ばかりだと思って聴けば、
まず間違いないです。


ただ、ぼくが「秋庭歌一具」を認めたように、
中にはああなるほどと思うような曲があるかも知れません。


みなさんも、もしよかったらこの「秋庭歌一具」を聴いてみてください。
曖昧だし、眠くなるし、退屈な音楽ですが、
神秘的な雅楽オーケストラのサウンドの魅力は、
きっと理解することができるはずです。


ぼくみたいに武満徹が嫌いな人でもそうだったのですから。


まあ、こんな音楽を聴いていても、女の子にはもてないですけどね。

*1:少なくとも、繰り返し日常的に聴いている人がいるとは、信じがたい気がします。

*2:笙については、伶楽舎の前回のコンサート評を読んでください→前編http://d.hatena.ne.jp/putchees/20050714 後編http://d.hatena.ne.jp/putchees/20050717

*3:近年は誤用する人が多いので確認しておくと、「おもむろに」という言葉は「ゆっくりと」という意味です。

*4:1967年、小澤征爾指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演。尺八と琵琶、オーケストラのための協奏曲。

*5:ちなみに、映画音楽の分野でも、武満徹篠田正浩勅使河原宏大島渚といった監督と組んで知性派のイメージを高めましたが、伊福部昭本多猪四郎監督の多数の怪獣映画に音楽をつけたため、子供だましのレベルの低い音楽家だと見なされています。

*6:「鬢多々良」については、過去のふたつのレビューをご覧ください→http://d.hatena.ne.jp/putchees/20050513 http://d.hatena.ne.jp/putchees/20050522

*7:オーケストラやアンサンブルは、全体をひとつの楽器と見なすことができます。