衝撃!山田耕筰の秘曲「長唄交響曲 鶴亀」を聴く!(前編)

putchees2005-10-16


本日はコンサート報告です


山田耕筰の遺産〜「日本の交響楽を求めて」


日時:10月15日(土)15:00〜17:00
会場:東京芸術劇場(池袋)

ミュージシャン


管弦楽東京都交響楽団
長唄:東音会
指揮:湯浅卓雄(ゆあさ・たくお)


長唄:東音宮田哲男 他
三味線:東音味見亨 他
囃子:望月佐太郎 他


篳篥:溝入由美子

曲目


(第一部)
管弦楽曲「序曲ニ長調」(2管編成 1912)
交響曲「かちどきと平和」(2管編成 1912)
交響詩曼陀羅の華」(3管編成 1913)


(第二部)
長唄交響曲「鶴亀」(2管編成 1934)
交響詩「明治頌歌」(3管編成 1921)

日本音楽界のパイオニア


今年は、山田耕筰(やまだ・こうさく1886〜1965)の
没後40年にあたります。


山田耕筰は、日本のクラシック音楽界の*1先駆者です。


一般には、歌曲の作曲家としてあまりに有名です。
からたちの花」「この道」「赤とんぼ
兎のダンス」「ペチカ」「待ちぼうけ」などなど、
日本人で、彼の歌を知らない人はいないでしょう。
彼は、日本語のアクセントの特性*2を活かした
すばらしいメロディを数多く作りました。


しかし、山田耕筰はそれだけの人物ではありません。
日本人として初めてオーケストラ曲と交響曲を作った人です。


また、日本人として初めてカーネギーホールCarnegie Hallの指揮台に立ち、
ベルリン・フィルBerliner Philharmonikerまで指揮し、フランス政府*3から
レジオン・ドヌール勲章Legion d'honneurまでもらっている(1936)のです。


すべて戦前の話ですよ?
ちょっとすごいでしょう。


第二次世界大戦前の世界で、
まちがいなくもっとも有名な日本人音楽家でした。


きょうは、その山田耕筰のオーケストラ曲を
たっぷりと聴けるコンサートに出かけてきました。


目玉は、篳篥とオーケストラが共演する「明治頌歌」と、
長唄とオーケストラが共演する「長唄交響曲 鶴亀」です。


めったに聴けない曲ばかりなので、行かないわけにはいきません。
そして、ほんとうに面白いコンサートでした。
日本人作曲家なんか興味ないという人も、ぜひ最後まで読んでみてください。

池袋西口のホールはがらがら


きょうのコンサートの会場は、池袋西口東京芸術劇場です。
ここへ行くたびに思うことですが、池袋西口はあまり柄のよくない街なので、
デートには不向きのホールかもしれません*4


もっとも、きょうのようなコンサートに、
恋人と行くようなとんまな人はいないでしょう。
あまりにマニアックな演目ですから。


きょうのお客さんは、ほとんどがオジサンオバサンでした。
ぼくが行くコンサートは、どうしていつもこうなのでしょう。


ひょっとすると、
長唄のお弟子さんたちが大挙訪れていたのかもしれません。


たまには、若い女の子の息でムンムンするような
コンサートに出くわしてみたいものです。


それはさておき、3フロアの客席は、1階が7割程度、
2階が4割程度、ぼくが座った3階席はがらがらでした。
全体としては、3〜4割程度の客の入りだったのではないでしょうか。

名盤連発の指揮者が登場!


きょうの指揮者は、ナクソスNAXOSレーベルで活躍する
湯浅卓雄でした。


彼は「日本作曲家選輯」で矢代秋雄芥川也寸志黛敏郎
諸井三郎、別宮貞雄、そして山田耕筰のオーケストラ作品集の
指揮をしています*5


そのほかにも、オネゲルArthur Honeggerの作品集が話題を呼ぶなど、
日本のみならず、欧米の音楽ファンからも注目されています。


彼の活動の拠点は欧州にあるため、
日本ではなかなか聴くことができません。


今回は東京で聴ける機会ということで、
その点でもたいへん楽しみにしていました。

ベルリン時代の管弦楽曲3つ


今回のコンサートは、第一部が「日本作曲家選輯」にも
収められている山田耕筰最初期のオーケストラ曲3つ、
第二部が、日本で本格的に活動を開始してからの2曲でした。


さあ演奏のスタートです。


1曲目は、日本人が作った、最初のオーケストラ曲です。
序曲ニ長調」というタイトルです。内容はそのまんまで、
Dメジャー調の短い曲でした。


山田耕筰がベルリン留学時代の課題として作った作品ということで、
いかにも優等生的で退屈な音楽ですが、
これが日本人の作った最初のオーケストラ曲かと思うと、
ちょっと感動的です。


湯浅卓雄の指揮はいささか地味ですが、きびきびとして、
腕のいい職人という印象でした*6

日本初の交響曲


2曲目は、日本人が作った最初の交響曲Symphony、
かちどきと平和」です。


これも、ベルリンでの修業時代に、
課題提出作品として作曲されたものです。


したがって、いかにも西洋音楽の作法通りで、
あまり面白くはありませんでした。


この作品が作られた1912年の10月16日には
ベルリンで、シェーンベルクArnold Schoenbergの
月に憑かれたピエロPierrot lunaire」が初演されています。


怪しいボーカルと怪しいアンサンブルがからむ、
衝撃的なほどモダンな作品でした。


「かちどきと平和」と比べると、
とても同時代の作品とは思えませんが、
世界の辺境からやってきた東洋人としては、
とにかく西洋音楽の基礎を一から学ぶ必要があったのでした。

春の祭典」と同じ年の曲


そして3曲目は交響詩曼陀羅の華」です。
この曲もベルリンで書かれていますが、
ドビュッシーClaude Debussy
リヒャルト・シュトラウスRichard Straussの影響を受けているそうです。


山田耕筰は、ベートーヴェンLudwig van Beethoven
モーツァルトWolfgang Amadeus Mozartなどの、
古くさいクラシックばかりに関心を抱いていたわけではありません。
当然、こうした同時代のヨーロッパ音楽に関心を持っていたのです。


この作品は課題として書かれた曲ではないため、
山田耕筰は、自分のほんとうに好きなものを自由に書いたのでしょう。


さて、曲はたしかに、
ドビュッシーふうのハープと弦楽の静かな序奏から始まります。


交響詩というタイトルどおり、絵画や詩を思わせるように
ドラマチックに進んでいきます。


全体としては穏やかな音楽で、
ぼんやり聴いているうちに終わってしまいました。


わりといい曲だと思いますが、
特別に印象的というわけではありません。


しかし、西洋音楽の伝統と縁のない25歳の東洋人の若者が、
欧州生活わずか3年でこれほどしっかりした曲を書いたというのは
驚くべきことです。


この曲を書き上げた直後、
山田耕筰は帰国することになります。


ちなみに、この曲が作られた1913年の5月29日、
パリではストラヴィンスキーIgor Stravinsky
春の祭典Rite of Spring」が初演されています。
20世紀的バーバリズムの誕生を告げる荒々しいバレエ曲でした。


欧州の音楽界は、まさに激動の時代を迎えていたのです。
その欧州を去ることは、山田耕筰にとって
口惜しいことだったに違いありません。


なお、第一部で演奏された曲は「日本作曲家選輯」の
こちらのCDに収められています。興味のある方はどうぞ。
http://www.naxos.co.jp/8.555350J.html

きまじめな明治人


第二部は、山田耕筰が帰国してからのオーケストラ曲ふたつです。


彼は1886年明治19年)に生まれ、1910年(明治43年)に
政商・岩崎小弥太(いわさき・こやた…三菱財閥の総帥)の
支援を受けてベルリンに渡ります。


そして1913年末、第一次世界大戦の開戦前夜に帰国します。
この直前、1912年(明治45年)7月、明治天皇崩御しました。
帰国したら、元号が大正になっていたわけです。


山田耕筰は、身を立て名を上げるために刻苦勉励する、
きまじめな明治の日本人そのものだったといえます。
夏目漱石のように、欧州で神経症になることもなく、
西洋の技術をしっかりと学んできました。
そして、その成果を日本に根付かせようとしたのです。


もっとも、彼はできることなら欧州にとどまる意向だったようです。
しかし、欧州で第一次大戦が始まったことで、
日本で音楽活動をするほかなくなったのです。

日本の音楽を「近代化」するために


山田耕筰が帰国して、
日本の西洋音楽界のみすぼらしさに直面したときの落胆ぶりは
想像するにあまりあります。


なにしろ、自作を演奏してもらおうにも、
日本にはオーケストラがなかったのです。


したがって彼は、なにもかも自分でやらなくてはなりませんでした。
彼は自分の歴史的使命に自覚的で、忠実でした*7


オーケストラの設立から指揮、後進の指導、啓蒙活動まで、
彼は精力的にこなしました。


そうして日本で音楽活動をすると、
彼は西洋音楽と日本の伝統的な音楽の葛藤に悩まされることになります。


要するに、水と油をどうやって親和させるかという問題です。


彼は西洋に魂を売ったわけではなく、
日本人としてのアイデンティティを持っていました。


そこで、山田耕筰は困難を承知で、
日本音楽と西洋音楽の融合を試みます。


日本音楽は西洋音楽の助けを借りて発展しなければならないという、
きわめて明治人的な発想があったのです。


政治制度や帝国陸海軍、あるいは演劇や文学がそうしたように、
和魂洋才」で近代化をするべきだというわけです。


そんなふうに作曲されたのが、第二部で演奏された2曲です。
さて、どんな演奏だったでしょうか。


(以下、後編につづく→id:putchees:20051018)

*1:正確には近代音楽の

*2:日本語のアクセントは、欧州の言語に多く見られるストレス(強勢)アクセントstress accentではなく、ピッチ(高低)アクセントpitch accentです。山田耕筰は作曲の際に、それぞれの語の自然なアクセント(音程)と矛盾しないメロディを心がけていました。

*3:当時は第三共和国Troisieme Repblique

*4:もっとも、北口のホテル街には近いですが。

*5:湯浅卓雄がタクトを振った「日本作曲家選輯」については、以下のレビューでご紹介しています。諸井三郎→id:putchees20051004 黛敏郎id:putchees20050313

*6:言うまでもなく、職人というのはほめて言っているのです。

*7:彼は私費で留学したわけではなかったので、パトロンに対する義理立ての気持ちもあったかもしれません。